分子にも、右手と左手のように鏡にうつすと重ならない「ふたご」があります。生き物は、そのうち片方だけを使っています。どうしてそんなことが起きたのか——100年以上のなぞに、答えを出しました。
受賞の理由(ノーベル財団の英語の発表を日本語にしたもの):「不斉有機合成における、非線形効果と自己触媒反応の発見」 発表 2026年10月7日
1930年 フランス生まれ(95歳)
フランス・パリ南大学(いまのパリ・サクレー大学)名誉教授
1950年 広島県生まれ(76歳)
東京理科大学 名誉教授
右手を鏡にうつすと、左手になります。でも、右手と左手は、どう回してもぴったり重ねることはできません(右手の手ぶくろは、左手には入りません)。分子にも、このような「鏡うつしのふたご」があります。化学では、こういう性質を「キラル」(ギリシャ語の「手」から)とよびます。
最初にこれを見つけたのは、170年以上前のパスツール。ワインづくりで出てくる物質の結晶を、けんび鏡で見て、ピンセットで右向きと左向きに分けたのです。
ブドウ酒のおりから取れる酒石酸(の塩)は、ある時は光(偏光)を右にかたむけ、ある時はまったく変えなかった。パスツールは結晶をけんび鏡で見て、おたがいに鏡うつしの2種類があることに気づき、ピンセットで分けた。それぞれを水にとかして偏光を通すと、一方は右へ、もう一方は左へ、同じだけかたむけた。2つをまぜると、光は変わらなかった。
このことから「物質には、鏡うつしの2つの形をもつものがある」と分かった。この2つを鏡像異性体(エナンチオマー)とよぶ(ノーベル財団の一般向け解説より。年はパスツールの発表の年)。
体をつくるタンパク質の材料・アミノ酸にも、右手型と左手型があります。ところが、わたしたちの体の中のタンパク質は、片方の手のアミノ酸だけでできています。DNAの中の糖も、片方だけです。
ところが化学者が試験管でこういう分子を作ると、必ず右と左が半分ずつできてしまう。生き物は、どうやって片方だけにしたのか?——これが100年以上のなぞでした。
薬づくりでも大問題です。薬の分子にも右手型と左手型があり、片方は病気に効き、もう片方は効かなかったり、体に悪かったりすることがあるからです。カギ屋さんにたとえると、作るとかならず鏡うつしの2本のカギができてしまい、カギ穴に合うのは1本だけ、という困った話です。
1960年代のはじめ、ねむり薬のサリドマイドを飲んだお母さんから、手足に障害のある子どもが数千人生まれた。のちの研究で、害を出したのは薬の分子の「鏡うつしの側」だったと分かった。このことから、薬は片方の手だけを作ることがとても大事になった(ノーベル財団の一般向け解説より)。
反応を進める触媒に、片方の手の部品を使うと、できる分子も片方の手が多くなります(不斉反応)。みんなは「部品が右7・左3なら、できる分子も右7・左3くらい」——つまりまっすぐな比例だと思っていました。
カガンさんは考えました。触媒の金属は、部品を2つつかむのでは? すると「右右」「左左」のほかに「右左」ができる。もし右左の触媒がおそかったら……?
カガンさんが実験で調べると、グラフはまっすぐではなく、曲がっていました(非線形効果)。右左の触媒がのろいので、反応は右右の触媒ばかりが進め、できる分子は、部品よりも片方の手にかたよるのです。カガンさんは1986年、この効果を3つの反応で示しました。
部品の鏡像体過剰率(右と左の差の割合)を e とすると、右の割合 a = (1+e)/2、左 b = (1−e)/2。2つの部品が運まかせに組むと、右右:左左:右左 = a² : b² : 2ab。右右と左左は速さ1で逆の手の分子を、右左は速さ g で両方を同じだけ作るとすると、できる分子の鏡像体過剰率は
ee = (a² − b²) / (a² + b² + 2ab·g)
g = 1 なら比例の直線、g < 1 なら上にふくらむ(正の非線形効果)、g > 1 なら下にへこむ。カガンさんたちは、このような模型(ML2 模型など)でグラフを説明しました。実際の触媒では、右左の組みやすさ(運まかせより組みやすい・組みにくい)もきいてきます。
いまでは、グラフが曲がるかどうかは「触媒の中で何が起きているか」を知る手がかりとして、薬などを作る反応の開発に毎日のように使われています。
硤合さんは、カガンさんの効果が大きく出る反応を調べているうちに、触媒と、できた分子の形がよく似ていることに気づきました。「それなら、できた分子そのものが触媒になって、自分と同じ手の分子を作る反応ができるかもしれない」(自己触媒)。
たくさんの分子を試して、ついに見つけました。最初に右がほんの2%多いだけの分子から始めると、反応のあとには87%まで片方にかたよったのです(1995年)。
さらに8年。2003年、硤合さんは、ほとんど半々の状態から、偶然ほんの少しだけ多くできた方が、反応全体を乗っ取ってしまう反応を示しました。最後には99.99%が片方の手になることもあります。くり返すと、右が勝つ回も、左が勝つ回もあります。どちらになるかは、最初の一瞬の偶然で決まるのです。
生き物以外で、化学反応だけで「片方の手だけ」を作ったのは、これが初めてでした。ノーベル財団は「これまでに行われた中で、最も見事な化学実験の一つ」と書いています。
イギリスの理論物理学者チャールズ・フランクは1953年、「生き物の片手らしさ」が化学で生まれるための3つの条件を、数式で示しました。
1はマルクヴァルト(1900年代はじめ)が最初に示し、2001年・2021年のノーベル化学賞の研究で実用になった。2をカガンさん、3を硤合さんがかなえた——今年の賞は、この長い「考えの鎖」の最後の2つの輪です。
上の模型は、フランクの式(自分と同じ手を増やす+右と左が出会うとくっついて働かなくなる)を計算したものです。くっついた組の中の分子も「できた分子」として数えています。何%になるか・何回で片方だけになるかは、硤合反応の本当の数字ではありません(実際の1995年の実験では、2%から始めて87%になりました)。硤合反応で使われた分子は、ピリミジンという輪をもつアルデヒドに、亜鉛の化合物(ジイソプロピル亜鉛)がつく反応で、できるアルコール(5-ピリミジルアルカノール)が自己触媒になります。
酒石酸の結晶に、鏡うつしの2種類があることを見つけ、ピンセットで分けた。
微生物は、ブドウにある方の酒石酸だけを食べ、鏡うつしの方には手をつけなかった。「生き物の化学は片手らしい」という考えの始まり。
片方の手の物質を使って、片方の手が「少しだけ」多くできる反応にはじめて成功。
「生き物の片手らしさ」が生まれる3つの条件を数式で示す。大学の授業で出される「化学の宿題」になった。
薬の鏡うつしの側が害を出した。片方の手だけを作る大切さが知られる。
半回転させると自分に重なる「2つ折りの形」の部品(DIOP)を使った触媒で、片方の手の分子を作る研究を進める。この形は、のちの多くの触媒の手本になった。
非線形効果を発見(フランクの条件 2)。
自己触媒で、2%の差を87%までふくらませた(フランクの条件 3)。
触媒を使って片方の手を作る反応。野依さんは名古屋大学。カガンさんが選ばれず、フランスの科学者が抗議した。
ほぼ半々から、偶然の差がふくらんで片方だけになる反応を示す。
金属を使わない、小さな有機分子の触媒で片方の手を作る方法。
ノーベル委員会「100年以上の化学のなぞ——片手らしさがどうやって自然に生まれるのか——に答えを出した」。
生年・出身地・学位・所属・受賞理由はノーベル財団の公式ページ。生年月日・2001年の抗議・DIOP・ヨウ化サマリウムは英語版ウィキペディア「Henri B. Kagan」(出どころとして Nature 414, 239 (2001) などをあげている)。硤合さんの生年月日・出身町・学歴・指導教員・経歴・褒章は日本語版・英語版ウィキペディア「硤合憲三」(2026年10月8日に読んだもの)。日本学士院賞は日本語版・英語版ウィキペディア(東京理科大学の2025年3月18日のお知らせを出どころにあげている)。
カガンさんの非線形効果は、反応の中で何が起きているかを知る「ものさし」として、薬・香り・味・農薬・新しい材料をつくる会社の研究で使われています。硤合反応は、生き物の反応とはちがう人工の反応ですが、「生命のはじまりに、どうやって片方の手が選ばれたのか」を調べる研究者たちを勇気づけ、いま世界中で、アミノ酸や糖で同じことを起こそうとする研究が進んでいます。
東大の化学(2003〜2026年のうち、手元にある21年分)を数えると、「鏡像異性体」「不斉炭素原子」などの言葉が出てくる年は17年ありました(問題の注意書きに出てくるだけの年もふくみます)。
「立体異性体を考える」問題。不斉炭素原子を2つもつのに、鏡うつしのふたごが1組しかない分子が出てきます。パスツールの酒石酸も同じなかま(鏡に重なる形が1つまじる)です。
問題と解き方を見る →「アミノ酸とペプチド、そして片方の手の触媒(不斉触媒)で、鏡うつしの片方を多く作る」問題。2001年のノーベル化学賞(野依良治さんたち)の研究と同じ考え方です。
問題と解き方を見る →東京大学の入学試験問題からの引用です。「」の中は問題の設定を短くまとめたもので、原文ではありません。このページの説明・図・シミュレーションは、東京大学やノーベル財団が公表したものではありません。
文と図はアトリエファクトリーが作りました。ノーベル財団の絵・写真は使っていません。