1 最後の灯り
朝になっても、私は机の前にすわっていた。
たなを見上げる。
あれほどぎっしりならんでいた灯りが、いまは一つしかない。
いちばん上のたなの、まんなか。
赤ちゃんの頭の上に、字が見える男の話。
ゆうべ、そのとなりの灯りを止めた。
風になったお父さんが、家族のそばにいた話だ。
さいごの夜、お父さんは、娘に「ありがとう」と「さようなら」をわたした。声のかわりに、風で。
お母さんは、カレンダーのあしたのところに、その人の名前を書いた。
リュウジ。
そして、同じ夜。
二十九日目の夜にとどくと、一日目から決まっていた別紙が、机の上にとどいた。
いちばん下に、名前が書いてあった。
リュウジ。
私は、その紙を、もう一度読んだ。
何回読んでも、書いてあることは同じだった。
九十九の人生は、ぜんぶ、リュウジという一人の人の毎日から生まれた。
赤ちゃんの字幕の話の、わかいお父さんも、リュウジ。
風になって家族のそばにいたお父さんも、リュウジ。
そして、この部屋で灯りを読む私は――
リュウジが、自分がいなくなったあとのために、生きているうちに用意しておいた「言いつけ」だった。
百人目ではなかった。
私は、だれかの生まれかわりではなかった。
だれかが、いなくなる前に、とっておいた仕事だった。
ふしぎと、こわくはなかった。
ゆうべたくさん泣いたから、もう、涙が残っていなかったのかもしれない。
私は、最後の灯りに、手をかざした。
2 風の目がさめた場所
――おれは、目をあけた。
あけた、と思った。
体はない。手も足もない。上から見ている、という感じだけがある。
風になってから、ずっとそうだった。
でも、何かがちがう。
ゆうべ、おれは、さいごの風を使った。
一回目は「ありがとう」のつもりで。
日づけがかわってから、二回目は「さようなら」のつもりで。
娘の前がみが、ふわっとゆれて、それから、しずかになった。
それで、おしまいのはずだった。
なのに、おれは、どこかの天井のすみにいる。
見おろすと、台所があった。
古い台所だ。
流しの横に、黄色いスポンジ。まどには、うすいカーテン。
まどの外には、道が一本。道の向こうに、二階建ての家。
……知っている。
ここは、おれの家だ。
ただし、ずっと昔の。
テーブルの横に、わかい女の人がいた。
つかれた顔をしている。でも、わらっている。
妻だ。
おれの知っている妻より、ずっと、わかい。
その向かいで、わかい男が、赤ん坊をだっこしている。
ねぐせがはねている。シャツのボタンが一つずれている。
あれは――おれだ。
三十二歳の、おれだ。
そして、その男のうでの中で、赤ん坊が、おれの鼻をつかもうと、手をのばしていた。
まるい顔。まだ、ほとんど毛のない頭。
ほっぺたに、ごはんつぶが一つ、ついている。
おれには、すぐ分かった。
分からないわけがない。
赤ん坊は、サヤだ。まだ、ねんね、と呼ばれているころのサヤだ。
ゆうべ、おれが「さようなら」をわたした、十二歳のサヤ。
その同じ子が、いま、生まれて十一か月の赤ん坊になって、昔のおれのうでの中にいる。
おれは、ふう、と吹こうとした。
何も起きなかった。
もう、風は一つも残っていない。
三十回、ぜんぶ使ったのだ。
数える風は、もう、どこにもない。
それでも、おれは、ここにいた。
*
3 三つの字
三月の、春のはじめの朝だった。
リュウジは、娘をだっこしたまま、娘の頭の上を見ていた。
リュウジには、赤ちゃんの頭の上にうかぶ字が見える。
娘の気持ちが、声になる前に、字になってうかぶのだ。
《ねむい》《まんま》《これ、とれる?》
この三十日、リュウジは、その字を、帳面に書きうつしてきた。
でも、その帳面は、もう、とじてある。
字は、娘が初めての言葉をしゃべった日に、消える。
母に、そう教わった。
その日が、いつ来てもおかしくなかった。
ぽん。
娘の頭の上に、字がうかんだ。
《ありがとう》
リュウジは、まばたきをした。
娘は、まだ十一か月だ。「ありがとう」なんて、知っているはずがない。
ぽん。
《さようなら》
ぽん。
《います》
三つの字が、娘の頭の上に、ならんでうかんでいた。
いつもの娘の字とは、形がちがった。
少しかくかくしていて、「す」のさいごが、くるんと小さくまるまっている。
「……ありがとう」
リュウジは、声に出して読んだ。
「さようなら。……います」
妻が、ふしぎそうに、リュウジの顔を見た。
「なあに? なんて書いてあるの?」
そのとき、台所の入り口から、声がした。
「それは、あなたの字よ」
母だった。
道の向かいの家から、朝ごはんのおすそ分けを持ってきたところだった。
母には、人の頭の上の字が見える。赤ちゃんのだけじゃなく、大人のも。
「あなたが小さいころから、ずっと見てきた字だもの。まちがえないわ」
母は、娘の頭の上をじっと見て、それから、リュウジの顔を見た。
「その『す』のまるめ方。あなたの字よ」
リュウジは、何も言えなかった。
自分の字が、どうして、娘の頭の上にあるのか。
ありがとう。さようなら。います。
だれが、だれに、言っているのか。
分からなかった。
でも、なぜか、むねのおくが、あたたかかった。
そのとき。
娘が、リュウジのほうに、手をのばした。
小さな指が、リュウジのほっぺたにさわった。
娘の口が、ゆっくり、動いた。
「……パ」
リュウジは、息を止めた。
「パパ」
三つの字が、しゅわっと、あわのように消えた。
《ありがとう》も。《さようなら》も。《います》も。
それから、娘の頭の上には、もう、何もうかばなかった。
どれだけ見ても、ただの、やわらかい髪の毛があるだけだった。
リュウジは、しばらく動けなかった。
それから、娘の顔を見た。
字じゃなくて、娘の顔を、まっすぐ見た。
「……うん」
声が、ふるえた。
「パパだよ」
妻が、両手で口をおさえて、わらいながら泣いた。
母は、エプロンのはしで、目をふいた。
4 まどの白いもや
しばらくして、母は、自分の家へ帰っていった。
道をわたって、向かいの家の玄関に入っていく。
少しすると、向かいの家の二階のまどが、からからとあいた。
母が、写真館で借りてきたという古い写真機を、こちらに向けていた。
こちらの家の、二階のまどに。
――おれは、その写真機を、天井のすみから見ていた。
思い出した。
二十四日目の、あの写真だ。
サヤと妻が、箱の中から見つけた、古い写真。
向かいの家の二階から、こっちの家の二階のまどをうつした写真。
まどのすみに、白いもやが、ぼんやりうつっていた。
「光のかげんでしょ」と、妻は言った。
サヤは、何も言わずに、まどを見ていた。
あのもやは――
いま、ここにいる、おれだ。
かしゃ。
写真機の音が、道をこえて、小さく聞こえた。
おれは、まどのすみで、じっとしていた。
下では、わかいおれが、赤ん坊をだっこしたまま、まだ、ぼうっとしている。
赤ん坊は、自分の言ったことにびっくりしたみたいに、目をまるくしている。
それから、もう一回、言った。
「パパ」
わかいおれは、また泣いた。
おれは、それを、ずっと見ていた。
風は、もうない。
あしたの分も、もうない。
でも、この家には、あしたがある。
5 百人目の灯り
頁は、そこで終わっていた。
でも、灯りは、消えなかった。
私は、両手を出しかけて、やめた。
この灯りは、止めなくていい。
一日目から、ずっと分かっていた気がする。
いちばん明るくて、いちばん長くつづいた、この灯り。
この家には、あしたがある。
私は、たなを見上げた。
一つだけの灯りが、ぽわん、と光っている。
九十九。
あの夜、何回数えても、九十九だった。
知らせには、百件とあったのに。
――そのときだった。
机の向こうの、だれもすわっていない椅子。
その椅子のうしろの、かべに、小さな扉があった。
いつから、あったのだろう。
三十日間、毎晩この部屋にいたのに、一度も気がつかなかった。
いや。ちがう。
きっと、今夜まで、なかったのだ。
扉には、一行だけ、書いてあった。
その人の、最後の日へ。
私は、立ち上がった。
扉のとってに、手をかけた。
つめたくて、少しだけ、あたたかかった。
扉の向こうに、灯りが一つ、ぽつんと光っていた。
たなの灯りより、ずっと小さい。ろうそくのさいごの火みたいに、ほそい光だった。
百人目の灯りだった。
私は、そっと、手をかざした。
――病院の、夜だった。
白いベッドの上に、男の人がねていた。
四十四歳。
体に、小さな機械がいくつもつながっている。
まどの外は、もう、まっくらだ。
その日は、男の人の、誕生日だった。
夕方、男の人は、ケーキ屋さんでプリンを買った。
娘の好きなプリン。自分の誕生日なのに、娘の好きなものを買った。
その帰り道。
横断歩道のまんなかで、せきが止まらなくなった。
しゃがみこんだ。
そこへ、車が来た。
病院で、男の人は、自分が今夜でいなくなることを知った。
男の人には、ずっと前から、せきが出ていた。
三十二歳のころからだ。
でも、病院に行くのがこわくて、いつも「いそがしいから」と言って、行かなかった。
四十歳をすぎて、やっと行ったときには、むねに、もう治らない影があった。
男の人は、仕事をやめた。
言葉を使う仕事をしていた人だった。
そして、一人で、ある準備をはじめた。
自分がいなくなったあとに、動く仕組み。
自分の毎日を、たくさんの人生の形に分けて、ならべる。
それを読む係を、一人、用意する。
読む係は、毎晩、灯りを読んで、止めて、残す言葉を聞く。
そして、さいごに、娘へわたす物語を書く。
百の話をならべて、読まれたものだけが残っていく。
それは、男の人が、昔、いつかやってみたいと思っていた遊びだった。
まさか、その材料が、自分になるとは思っていなかった。
でも、準備は、ぜんぶは間に合わなかった。
百の世界にとどいた、あの知らせ。
「重大な不具合」「原因究明」。
あれは、ほんとうは、ちゃんと書きなおすつもりだった、仮の言葉だった。
書きなおす前に、時間が来てしまった。
こわい言葉のまま、とどいてしまった。
――ごめんな。
男の人は、ベッドの上で、そう思った。
それから、男の人は、自分のお父さんのことを思い出した。
テツ、というお父さんだった。
友だちのたのみで、紙にはんこをおして、お店をなくした人。
家族に説明できなくて、家を出ていった人。
川べりに上着がのこっていたから、みんな、川で死んだと思った。
からっぽのまま、お葬式をした。
でも、ほんとうは生きていて、ずっとあとになって、向かいの家の二階に、かくれて住んでいた。
男の人は、長いあいだ、そのお父さんを、ゆるせなかった。
お父さんも、息子に会うのがこわくて、かくれていた。
娘が四歳の秋、お父さんは、ほんとうに死んだ。
二回目のお葬式。
男の人は、お父さんの失敗の話を、たくさん集めた。
いちばんへんな顔でわらっている写真を、式の紙にのせた。
来た人は、みんな、わらった。
泣きながら、わらった。
ゆるせたから、明るくしたんじゃない。
ただ、さいごくらいは、わらって、わかれたかった。
――死ぬなら、明るく。
男の人は、病院の天井を見ながら、そう思った。
九十九の人生を、男の人は、もう一度、頭の中でならべた。
宇宙人。お相撲さん。世界でいちばん強い男。生前葬のおじいさん。
どれも、男の人が生きて、感じて、失敗して、わらった毎日が、形をかえたものだった。
その中の二つだけは、形をかえていない。
娘が赤ちゃんだったころの、ほんとうの三十日。
それから、これから来る、自分がいなくなったあとの、三十日。
最後の頁だけは、どうしても、書けなかった。
娘に、何と書きはじめればいいのか。
立派な父親の話にしたら、うそになる。
かなしい話にしたら、娘が泣く。
だから、男の人は、決めた。
失敗した話も、ぜんぶ残そう。
鼻をつかまれた話も。プリンを流しに落として、あらおうとした話も。
娘に、わらってもらえるように。
そして、書きはじめられなかった最後の頁は――
読む人に、たのもう。
男の人は、手順書のさいごに、一行、書き足した。
私が書き始められなかった最後の頁は、読むあなたに託すこと。
それから、二十九日目の夜にとどく紙に、自分の名前を書いた。
リュウジ、と。
男の人は、ペンを置いた。
紙から、そっと、手をはなした。
――百人目の灯りは、そこで、しずかに消えた。
6 白い頁
私は、机にもどった。
冊子の、さいごの頁をひらいた。
一日目の夜から、ずっと、まっ白だった頁。
私は、えんぴつを持った。
一日目の夜、この上にえんぴつを置いて、何も書かずに、また持ちあげた。
それから三十日。
毎晩、ここまで来ては、何も書けなかった。
でも、今夜は、書く。
私が書くのは、修理の報告じゃない。
言いつけの、つづきでもない。
私が、この部屋で読んで、わらって、泣いた、話だ。
私は、さいしょの行に、書いた。
サヤへ
それから、書きはじめた。
あなたのお父さんは、赤ちゃんだったあなたに、鼻をつかまれたことがあります。
思いきり、つかまれました。
あなたの頭の上には、《これ、とれる?》と書いてありました。
えんぴつが、止まらなかった。
宇宙人が豆腐を好きだと言えなかった話。
強い男が、はだしの子のとなりに立った話。
お相撲さんが、覚えた言葉で「たすけて」と言えた話。
プリンを分けて、わらって、泣いた話。
生きているうちに、自分のお葬式をひらいたおじいさんの話。
――ぜんぶ、あなたのお父さんの話です。
それから、私は、机のいちばん下の引き出しをあけた。
五日目の夜に見つけた、小さな紙が、まだ入っていた。
そこに、誰か、いますか
同じ字だった。
手順書と同じ、少しかくかくした字。「す」のさいごが、くるんと小さくまるまっている。
あの人が、いなくなる前に、ここに入れておいた問い。
私は、その下に、書いた。
います。
7 何日かあと
――何日かあと。
遠い町の、ある家で。
十二歳の女の子が、自分の部屋で、ぶあつい紙のたばをめくっていた。
いつのまにか、机の上にとどいていた紙だった。
表紙には、「サヤへ」とだけ書いてあった。
さいしょは、ゆっくりめくっていた。
そのうち、ぷっと、ふき出した。
赤ちゃんに鼻をつかまれて、「いててて」と言う、わかいお父さん。
プリンを流しに落として、あらって食べようとする、お父さん。
女の子は、紙を持ったまま、声を出してわらった。
わらいながら、目のはしが、ぬれた。
「これ、パパの話だ」
女の子は、しばらく、だまっていた。
それから、自分の机の引き出しをあけた。
白い紙を一まい、引きよせた。
えんぴつを持つ。
何を書くのかは、まだ、書いていない。
それは、あの子が決めることだ。
(おわり)