1 二つの灯り
たなには、灯りが二つだけ残っていた。
いちばん上のたなの、まんなか。
ならんで光る、二つの灯り。
一つは、赤ちゃんの頭の上に字が見える男の話。
もう一つは、風になったお父さんが、家族のそばにいる話。
どちらも、ほかのどの灯りより明るかった。
たくさんの、たくさんのだれかが、この二つを読んでいるのだ。
今朝、私は、封筒を一通、出した。
風のお父さんの灯りへ。
今夜、この世界は止まります。
残したい言葉があれば、この紙にどうぞ。
十三日目からは、朝に知らせることになっている。
止まる日の一日を、知ったうえで、すごせるように。
この封筒は、ふしぎな封筒だ。
手がなくても、口がなくても、残したい言葉を思うだけで、それが字になって、私のところへもどってくる。
宇宙人のゾグも、三本足の猫のタマも、一円玉も、この封筒で言葉を残した。
お昼ごろ、封筒がもどってきた。
夜に、娘へ、ありがとうと、さようならを、わたしたい。
それだけだった。
うまくいくかどうかは、書いていなかった。
うまくいったら、とも、書いていなかった。
2 にじんだ名前
夜。
私は、まず、字幕の灯りに手をかざした。
赤ちゃんのいる家は、三月のはじめだった。
わかいお父さんは、せきをしながら、帳面をひらいていた。
娘の頭の上の字を、書きうつす帳面だ。
そのとき、向かいの家から来ていたおばあちゃんが、赤ちゃんをだっこして、呼んだ。
いつもの呼び方じゃなかった。
「ねんね」でも、「ネネ」でもない。
赤ちゃんの、ほんとうの名前だった。
――でも、その名前のところだけ、頁の字が、にじんで読めなかった。
水をこぼしたみたいに、ぼやっと、ぼやけている。
私は、目をこらした。
やっぱり、読めなかった。
わかいお父さんも、その名前を呼んだ。
帳面を、とじた。
娘の頭の上じゃなくて、娘の顔を、見た。
ほんとうの名前。
あしたになれば、読めるのだろうか。
3 最後の一日
私は、となりの灯りに、手をかざした。
――五月二十九日。朝。
おれは、台所の天井のすみで、封筒の字を思いうかべた。
夜に、娘へ、ありがとうと、さようならを、わたしたい。
風は、あと二回。
一日に一回しか、使えない。
一回目は、今夜、日づけがかわる前に。
二回目は、日づけがかわったあとに。
それで、おしまいだ。
一日は、ふつうにすぎた。
サヤは、学校へ行った。
帰ってきて、ランドセルをおろして、きのうのお祭りの話を、またした。
太鼓はたたかなかった。でも、たたく人の水を配って、お客さんの席をならべた。
「まんなかの席、ちょうど太鼓がいちばんよく聞こえるとこにしたの」
サヤは、とくいそうに言った。
妻は、あしたの準備をしていた。
あしたは、おれがいなくなって、ちょうど一か月の日だ。
お花を買ってきて、水をかえて、おれの写真の前の、ほこりをふいた。
写真のおれは、へんな顔でわらっていた。サヤが選んだ一まいだ。
夕ごはんは、カレーだった。
湯気が、ゆらゆら上ってきた。
おれは、吹かなかった。
今日の風は、とっておかなくちゃいけない。
おれは、ただ、見ていた。
サヤがカレーをおかわりするところ。
妻が「ちょっと多すぎたかな」と言いながら、鍋をのぞくところ。
ぜんぶ、見ていた。
見ていられるのは、今夜までだから。
4 ありがとう
夜の十一時をすぎた。
サヤは、ふとんに入っていた。
目は、もう半分とじている。
まくらもとの電気スタンドが、小さく光っている。
おれは、天井のすみから、サヤのそばへおりた。
おりた、と思った。
サヤ。
十二年。
おまえが生まれてから、十二年。
言いたいことは、山ほどあった。
ごめん、も。
がんばれ、も。
あの話の続き、も。
でも、風は、一回だけだ。
風は、声じゃない。言葉は、とどかない。
だから、おれは、一つだけにした。
――ありがとう。
ふう。
サヤの前がみが、ふわっと、ゆれた。
サヤは、目をあけなかった。
でも、口のはしが、ほんの少しだけ、上がった気がした。
気のせいかもしれない。
おれは、それでよかった。
5 カレンダー
台所にもどると、妻が、まだおきていた。
テーブルに、カレンダーをひろげている。
あしたのところ。五月三十日。
妻は、ペンを持って、そこに、何かを書いた。
一回だけ。
ゆっくり、ていねいに。
妻は、声に出して読まなかった。
ただ、書いた字を、しばらく見ていた。
それから、ペンのふたをしめて、カレンダーを、かべにもどした。
――私は、頁の上の、そのカレンダーを見た。
五月三十日のところに、字があった。
リュウジ。
私は、息を止めた。
リュウジ。
その名前を、私は知っている。
赤ちゃんの字幕の話の、わかいお父さん。
四日目の夜から、ずっと読んできた、あの人の名前だ。
風のお父さんが、リュウジ?
じゃあ、赤ちゃんの話の、わかいお父さんと……同じ人?
頭の中で、何かが、かちっと音をたてた。
でも、まだ、全部はつながらない。
私は、頁のつづきを読んだ。
6 さようなら
かべの時計が、十二時をさした。
日づけが、かわった。
おれの中に、風が一つ、もどってきた。
さいごの一つだ。
サヤは、もう、ぐっすりねむっていた。
すう、すう、と、ねいきが聞こえる。
四日目の夜を、思い出した。
あの夜、おれはリボンに風を吹いて、それから、時計が十二時をすぎて、次の風がもどってくるのを、はじめて知った。
あのときは、あと二十六回もあった。
いまは、これが、さいごだ。
おれは、サヤの顔を、見た。
まつげ。ほっぺた。少しひらいた口。
赤ちゃんのころと、ねがおだけは、ぜんぜん変わらない。
――さようなら。
ふう。
サヤの前がみが、ふわっと、ゆれた。
それから、しずかになった。
前がみは、もう、ゆれなかった。
サヤのねいきだけが、すう、すう、と聞こえていた。
7 灯りを止める
頁は、そこで止まっていた。
私は、両手を出した。
これまで、何回も、何回もしてきたことだ。
灯りを、両手でそっと包む。
光が、手のひらに、しみこむように、小さくなっていく。
あたたかかった。
いままで止めたどの灯りより、あたたかかった。
光が消えて、手の中に、すきとおったガラス玉が一つ、残った。
私は、それを、引き出しにしまった。
宇宙人のゾグの玉のとなりに。
世界でいちばん強い男の玉のとなりに。
8 差出人の別紙
そのときだった。
机の上に、一まいの紙が、とどいていた。
二十九日目の夜にとどく、差出人の別紙。
一日目の夜、手順書の一ページ目で読んだ、あの紙だ。
二十九日。けっこう先だ、と思ったのを、おぼえている。
私は、紙をひらいた。
読む係へ
三十日、読んでくれて、ありがとう。
わらってくれたところも、泣いてくれたところも、ありがとう。
最後の仕事を、たのみます。
私が書きはじめられなかった頁を、書きはじめてください。
上手に書かなくていいです。
わらったところは、わらったまま。
あの子の続きは、決めないで。
リュウジ
リュウジ。
少しかくかくした字。
「す」のさいごが、くるんと、小さくまるまっている。
手順書と、同じ字。
引き出しの奥の「そこに、誰か、いますか」と、同じ字。
カレンダーの名前と、同じ名前。
かちっ。
さっきの音が、もう一度、した。
こんどは、ぜんぶ、つながった。
赤ちゃんの字幕の、わかいお父さん。
風になって、家族のそばにいたお父さん。
手順書を書いた人。
引き出しに、問いを入れた人。
ぜんぶ、リュウジだ。
九十九の人生も。
宇宙人のゾグの、豆腐が好きなのに言えないところ。
カナメの、待つのが苦手なところ。
生前葬のおじいさんの、立派に見せたいところ。
あれは、ぜんぶ、リュウジという一人の人の、毎日のかけらだった。
二十四日目の夜、ちがう人生の中に、同じ暮らしのあとを見つけた。
あのとき感じたことは、まちがいじゃなかった。
そして――私。
二十五日目の夜、私は、この仕事より前の自分を、何も思い出せないことに気がついた。
私は、百人目なんじゃないか。
私も、だれかの生まれかわりなんじゃないか。
そう思って、こわくなった。
ちがった。
私は、生まれかわりじゃない。
リュウジが、いなくなる前に、自分がいなくなったあとのために用意しておいた、言いつけだ。
読んで、止めて、残す言葉を聞いて、さいごに書く係。
それが、私だった。
私は、椅子の背にもたれた。
机の向こうの、だれもすわっていない椅子を見た。
だれも、すわっていない。
でも、あの椅子は、一日目から、ずっと、そこにあった。
私は、たなを見上げた。
灯りは、一つだけ。
赤ちゃんの字幕の灯りが、ぽわん、と光っている。
百人目は、私じゃなかった。
じゃあ、百人目は、どこにいるんだろう。
(つづく)