1 止めない夜
今夜は、止める灯りが、一つもない。
たなには、灯りが二つ。
いちばん上のたなの、まんなか。
赤ちゃんの字幕の灯りと、風のお父さんの灯り。
どちらも、今夜は、止まらない。
今朝、私は、封筒を出さなかった。
出す相手が、いなかったから。
引き出しは、ガラス玉で、いっぱいだった。
かべは、覚え絵で、うまっていた。
九十七の人生。
九十七回、両手で、灯りを包んだ。
私は、手順書をひらいた。
四日目の夜に見つけた、あの行を、もう一度、読んだ。
管理人にも、休む夜をつくること。
――今夜が、その夜なのかもしれない。
私は、机の向こうの椅子を見た。
四日目に、机のほうへ向けた椅子。
十六日目に、かべまでおしやった椅子。
十七日目に、また、もどした椅子。
だれも、すわっていない。
でも、今夜は、なんとなく、その椅子に、話しかけたくなった。
「……今夜は、休みです」
もちろん、返事はない。
2 下書き
休む、と言っても、何をしていいのか、分からなかった。
私は、冊子の、さいごの頁をひらいた。
まっ白な頁。
その、すぐうしろには、ゆうべはさんだ、古い企画のメモ。
私が書き始められなかった最後の頁は、読むあなたに託すこと。
一日目の夜から、ずっと、この頁は、白いままだ。
書いてみようとしたことは、ある。
九日目には、「また会いに」と書いて、消した。
――何を、書けばいいんだろう。
私は、白い頁の、となりに、べつの紙を一まい、置いた。
下書き用の紙だ。
いきなり、白い頁には、書けない。
まず、下書きをしよう。
えんぴつを持って、考えた。
だれに、書くのだろう。
この白い頁は、だれが、読むのだろう。
裏表紙の内がわには、「サヤへ」と書いてあった。
でも、それが、だれなのか、私は、まだ、たしかめていない。
何を、書くのだろう。
私は、かべの覚え絵を、見上げた。
赤いはちまき。ちゃんこの湯気。缶のココア。
豆腐のつつみ。窯の種火。
半分このまんじゅう。
ほかにも、たくさん。
それから、帳面を、はじめから、めくった。
二十八日分の、私の字。
猫が、ぜんぶこわした。兄妹は、ぜんぶ、つなぎなおした。
町内会の旅行で、ちがうバスに乗って、ひとりで温泉に行った。本人は、バスの色が同じだったと言いはった。
二十一日目。タマは、ひざにもどった。コウヘイは、観覧車に乗った。雨だった。
読みながら、私は、わらった。
それから、少し、泣いた。
――わらったところも、わたそう。
私は、下書きの紙に、書いた。
かなしい話だけに、しない。
わらったところは、わらったまま、わたす。
それから、もう一行、書き足した。
読んだ人が、どう思うかは、読んだ人が決める。
泣いてもらえるように、書かない。
わらってもらえるように、書かない。
私が、読んで、わらって、泣いたことを、そのまま、書く。
どう受け取るかは、読む人のものだ。
でも、まだ、白い頁には、書かなかった。
何かが、足りない気がした。
――だれに書くのか、まだ、ちゃんと、分かっていない。
あしたは、二十九日目。
一日目の夜、手順書の一ページ目で読んだ。
二十九日目の夜に、差出人の別紙が届きます。
あした、だれかの名前が、とどく。
3 お祭りの、太鼓
右の灯りを、読んだ。
――二十八日目。
お祭りの日だった。
サヤは、朝早く、はっぴを着て、出かけていった。
「行ってきます! 片づけまで、やってくるから!」
家には、妻と、おれだけ。
いや、おれは、いないのと同じだけど。
夕方。
遠くから、音が、聞こえてきた。
どん。どん。どどん。
太鼓だ。
町の、お祭りの、やぐらの太鼓。
家のまどまで、ひびいてくる。
おなかに、ひびく音。
――あの音だ。
おれが、子どものころから、大好きだった音。
サヤは、今、あの音の、すぐそばにいる。
聞く人の席を、ならべて。
太鼓をたたく人に、水を配って。
妻は、台所で、夕ごはんを作っていた。
太鼓の音に合わせて、ときどき、包丁の音が、とん、とん、と、はねた。
おれは、さびしかった。
あしたの夜で、おれは、おわる。
そう思ったら、急に、さびしくてたまらなくなった。
この、さびしさを、二人にも、分けたかった。
おれがいなくなるのが、どれだけ、さびしいか。
二人にも、分かってほしかった。
夜。
サヤが、帰ってきた。
くたくたで、でも、ほっぺたが、まっかだった。
手に、えんぴつくらいの、小さな支柱を、一本、持っていた。
帰りに、学校の花だんに、よってきたのだという。
「朝顔、芽が出てた! だから、支柱、立ててきた」
夕ごはんの、なべから、湯気が上がっていた。
「ねえ、ママ。お祭りでね、太鼓の人がね、ばちを、落としたの! いちばん大事なとこで!」
サヤが、身ぶり手ぶりで、話しはじめた。
「そしたらね、その人、手で、太鼓、たたいたの! ばしばしばし!って! 手で! お客さん、みんな、大わらい!」
妻が、ふき出した。
サヤも、自分で言って、わらった。
二人で、おなかをかかえて、わらった。
おれは、今日の風を、夕ごはんの湯気に、吹いた。
湯気が、ゆらゆらと、二人のあいだを、なびいた。
二人は、わらっていた。
――おれのさびしさなんて、分けなくていい。
二人が、わらっているなら、それでいい。
おれは、決めた。
あしたの夜。
のこりの風は、二回。
一回は、日づけがかわる前に。
もう一回は、日づけがかわったあとに。
――日づけのさかいめまで、待とう。
さいごの一回まで、ちゃんと、使いきろう。
4 川で、死んだ人
左の灯りを、読んだ。
――二十八日目。
リュウジは、お母さんの家の、台所に、すわっていた。
向かいには、お母さん。
その、となりに――
灰色の上着の、男の人。
石橋で、「初めての言葉を、聞きのがすな」と言った、あの男の人。
写真のすみに、うつっていた顔。
「……父さん、なんだろ」
リュウジは、言った。
声が、ふるえた。
男の人は、うなずいた。
お母さんが、話しはじめた。
ゆっくり。
何十年も、しまっておいた話を。
お父さんは、昔、友だちのたのみで、紙に、はんこをおした。
友だちは、お金を返せなかった。
お父さんは、お店をなくした。
家族に、説明できなくて、家を出ていった。
それから、しばらくして、川べりで、お父さんの上着が、見つかった。
お母さんは、お父さんが、川で死んだと思った。
小さかったリュウジに、そう言った。
からっぽのまま、お葬式をした。
――でも、お父さんは、生きていた。
リュウジが、大人になって、家を出たあと。
お父さんが、ある日、お母さんの家の戸を、たたいた。
お母さんは、ものすごく、おこった。
それから、二階に、住まわせた。
「……なんで、言わなかったの」
リュウジの声が、大きくなった。
「なんで、ずっと、かくしてたの。死んだって。ぼくは、ずっと――」
ごほっ。
せきが、出た。
ごほっ、ごほっ。
リュウジは、立ち上がりかけた。
いつもの、くせだった。
せきが出たら、席を、はなれる。
――にげる。
リュウジは、いすのせもたれを、つかんだ。
立たなかった。
せきがおさまるまで、そこに、すわっていた。
お母さんが、言った。
「……こわかったのよ。わたしも」
「あなたに、『お父さん、生きてた』って、言いなおすのが。死んだって言ったのは、わたしだったから。言いなおしたら、あなたが、どんな顔をするか、こわかった」
それから、お母さんは、お父さんのほうを見た。
「あなたも、でしょう」
お父さんは、長いこと、だまっていた。
テーブルの上の、自分の手を見ていた。
はんこをおした手。
家に帰れなかった手。
リュウジは、何も言わなかった。
ゆるす、とも、ゆるさない、とも。
ただ、お父さんの返事を、待った。
まどの外の、物置の前に、空気のぬけたドッジボールが、ころがっていた。
リュウジが、子どものころに、遊んでいたボールだった。
――頁は、そこで、今日の分がおわっていた。
私は、灯りから、手をはなせなかった。
はんこ。
お店をなくした男。
川べりの、上着。
死んだことにされて、二階に、かくれて住んだ男。
十九日目の夜に止めた、金物屋の男の話と、同じだった。
私は、かべの覚え絵を見た。
焼き印のはんこの絵が、はってあった。
帳面には、名前を書かなかった、あの焼き印。
ちがう世界の、ちがう人の話のはずだ。
なのに、どうして、こんなに、同じなんだろう。
私は、下書きの紙を、もう一度、見た。
だれに書くのか、まだ、分からない。
あしたの夜、名前がとどけば、分かるのだろうか。
私は、えんぴつを置いて、目をとじた。
休む夜なのだから。
(つづく)