1 小さな、大きな犬
今夜止まるのは、ゴマの灯りだった。
ゴマは、ポメラニアンだ。
ふわふわの毛の、小さな小さな犬。
だっこすると、両手に、すっぽり、おさまる。
でも、ゴマは、自分のことを、大きな犬だと思っていた。
強くて、りっぱな、番犬だと。
一日目。
ゴマは、散歩のとちゅうで、ワンワン、ほえた。
向こうから来る人に。自転車に。電柱に。
ほえながら、ゴマは、飼い主のミオちゃんに、だっこされていた。
自分がだっこされていることを、わすれていた。
ミオちゃんが、散歩道のとちゅうで、ぴたりと、止まった。
二日目から二十日目。
道の先に、大きな犬が、いた。
ムクという、本物の大型犬だ。
ゴマは、ムクに、いどもうとした。
足が、ぷるぷる、ふるえていた。
ミオちゃんも、ムクがこわかったのだ。
ゴマは、べつの道をえらばせようとした。
にげたと思われたくなかった。
家のまどから、道を見はることにした。
守っているふりをして、外に出るのを、さけていた。
となりに、ナギという、新しい子が、ひっこしてきた。
二十一日目から二十六日目。
ミオちゃんの手が、小さく、ふるえているのを、ゴマは、感じた。
ゴマも、こわかった。
でも、それを、つたえられなかった。
ムクが、道のはしに、よってくれた。
ゴマとミオちゃんは、ムクのよこを、さいごまで、通りきった。
ゴマは、さいごに、ワンとほえたくなった。がまんした。
ミオちゃんが、「ありがとう」と言って、なでてくれた。
ナギが、自分から、ゴマに近づいてきた。
ゴマは、とびつきたくなった。
待った。
ナギの手のひらが、そっと、とどいた。
ゴマは、古い首輪を、くわえて、飼い主のおばあちゃんの、ひざの上に置いた。
ゴマが、この家に来る前から、つけていた首輪だ。
おばあちゃんが、首輪を、うらがえした。
うらに、かすれた字で、名前が、書いてあった。
ゴマの名前じゃない。
ずっと昔の、だれかの名前。
今朝、ゴマの封筒が、もどってきた。
大きく、守れなかった。でも、ここに、いる。 ごま
今日。
夕方。
みんな、あしたの散歩の準備をしていた。
ミオちゃんも、ナギも、おばあちゃんも。
おばあちゃんのひざの上に、ゴマの場所が、あいていた。
ゴマは、ひざの上に、のぼった。
小さな体を、まるめた。
それから、おばあちゃんの顔を、見上げた。
何か、言いたかった。
自分でも、なぜか、分からなかった。
でも、首輪のうらの、あの名前を、呼びたかった。
ゴマののどから、犬の声じゃない、小さな息が、もれた。
「……て、つ」
おばあちゃんが、目を、まるくした。
それから、ゴマの頭を、ゆっくり、なでた。
夜。
おばあちゃんのひざの上に、小さな鼻が、ふせていた。
――頁は、そこで、止まっていた。
手順書に、この行があった。
大きく守ろうとしないこと。小さな風でいい。
2 補強紙の、うら
ゴマの灯りを包んだあと、私は、机の上の、小さな紙に気がついた。
ゆうべ、手順書の裏表紙をはがしたとき。
裏表紙と、冊子のあいだに、うすい紙が一まい、はさまっていた。
裏表紙がやぶれないように、うらから、はってあった、補強の紙だ。
私は、それを、机のすみに、よけておいたのだった。
その紙を、手に取った。
うらがえした。
字が、書いてあった。
手順書と、同じ字。
でも、もっと、わかい、いきおいのある字だった。
――ずっと昔に、書いたもの。
企画メモ
百の話を並べて、読まれたものだけが残っていく。いつか、これをやってみたい。
・読まれた数で、一日ずつ、へっていく
・さいごに、いちばん読まれた話だけが、のこる
・おもしろそう!
私は、その紙を、にぎりしめた。
――これだ。
これが、この部屋の、正体だ。
百の話をならべて、読まれたものだけが、残っていく。
読まれなかった話から、へっていく。
――私が、毎晩、してきたこと。
あの知らせに書いてあった、「読了の少ない世界線から順に」。
「おもしろそう!」
私は、声に出して、言った。
「おもしろそう、だって?」
カナメは、白線の上で、一歩目の、とちゅうだった。
バトは、兄弟子に、なべをわたす、とちゅうだった。
ゾグは、豆腐を「すきだ」と言った夜に、止まった。
シュウゾウは、まんじゅうを、口もとに持ちあげた、とちゅうだった。
みんな、とちゅうで、止まった。
私が、止めた。
それが、だれかの、「いつか、やってみたい」遊びだった?
私は、はじめて、手順書を書いた人に、腹が立った。
ものすごく、腹が立った。
こんな遊びのために、私は、この両手で、九十何回も――
私は、補強紙を、やぶこうとした。
手が、止まった。
ゴマの行が、目に入ったのだ。
さっき、丸をつけたばかりの行。
大きく守ろうとしないこと。小さな風でいい。
――小さな風。
私は、補強紙を、机の上に、そっと、もどした。
やぶかなかった。
この紙を書いたとき、書いた人は、まだ、わかかった。
「おもしろそう!」と、書くくらいに。
そのときは、きっと、知らなかったのだ。
いつか、その「百の話」の中に、ほんとうに、だれかの、くらしが入ることを。
止めるのが、どんなに、重いことかを。
でも、知らなかったからって、ゆるせるわけじゃない。
遊びの「おもしろそう!」と、両手で包んだ灯りの、あたたかさ。
その両方を、私は、どうすればいいのだろう。
私は、帳面に、書いた。
二十七日目。古い企画のメモを見つけた。腹が立った。
でも、やぶらなかった。
それから、補強紙を、手順書の、さいごのページのうしろに、はさんだ。
白い頁の、すぐうしろに。
3 さいごまで、やる
右の灯りを、読んだ。
――二十七日目。
サヤは、お祭りの準備の、最後の打ち合わせから、帰ってきた。
あしたが、お祭りだ。
「あしたね、朝から、夜の片づけまで、ぜんぶ、手伝うことにした」
サヤは、言った。
「さいごまで、やる」
――あした。
おれは、天井のすみで、どきっとした。
あしたは、二十八日。
その次の日は、二十九日。
おれに、のこっている風は、今日の分を入れて、あと、四回。
――サヤには、家にいてほしかった。
さいごの時間を、この家で、いっしょに。
でも、サヤは、もう、決めていた。
物置の、夏祭りの道具の箱をあけて、中から、ひもだけを、取り出していた。
かき氷の旗は、しまったまま。
五月のお祭りには、いらないから。
妻が、物干しに、はっぴを、ほした。
たすきみたいに、長い布が、風に、ゆれた。
「あした、これ、着ていきなさいね」
妻も、送り出す、用意をしていた。
おれは、今日の風で、物干しの、はっぴのすそを、ふわっと、ゆらした。
行ってこい。
さいごまで、やってこい。
4 帳面を、とじる
左の灯りを、読んだ。
――二十七日目。
夜。
娘は、もう、ねていた。
リュウジは、台所のテーブルで、字幕の帳面を、ひらいていた。
《これ、とれる?》
《ママのこえ、すき》
《きらきら、ない》
《ぴかぴか》
《やだ》《やだ》《やだ》
《わんわんの、くつした》
《ばあば》
《にゃんにゃ》
二十七日分の、娘の字。
ぜんぶ、ここにある。
おくさんが、となりにすわった。
リュウジは、言った。
「……こわいんだ」
「字が、消えるのが。あの子が、しゃべったら、もう、字は見えなくなる。あの子の気持ちが、分からなくなる」
リュウジは、帳面を、ぎゅっとにぎった。
「ずっと、このままでいてほしいって、思っちゃうんだ。大きくならないでって。……声なんか、あとで、いくらでも、聞けると思ってた」
おくさんは、しばらく、だまっていた。
それから、リュウジの手から、帳面を、そっと、取った。
ぱたん。
帳面を、とじた。
「字じゃなくて、あの子を見て」
リュウジは、ベビーベッドのほうを、見た。
娘が、ねがえりを、うった。
頭の上には、何も出ていなかった。
でも、娘の小さな口が、ねむったまま、もごもごと、動いていた。
何か、言おうとしているみたいに。
(つづく)