1 みじんこの、ピコ
今夜止まるのは、ピコの灯りだった。
ピコは、みじんこだ。
水の中にいる、とても小さな生きもの。
目で見ると、白い点にしか見えない。
けんび鏡で見ると、すきとおった体に、手みたいなひげが二本あって、ぴょこぴょこ、はねるように泳ぐ。
ピコの住んでいるのは、道ばたの、水たまりだった。
一日目。
ピコは、水たまりのことを、海だと思っていた。
どこまでも広い、大きな海。
年上のみじんこが、水たまりのはしの、どろについた線を、見せてくれた。
「見てごらん。水が、へってきている。前は、ここまであったんだ」
二日目から二十日目。
ピコは、光を追いかけて、ひとりで、深いところへ泳いでいった。
なかまの小さなつぶが、ついてこられなかった。
ピコは、もどって、なかまをさがした。
浅いところで、動けなくなっていた。
二ひきで、深いところへ、うつった。
でも、深いところも、どんどん、へっていった。
二十一日目から二十五日目。
ピコは、年上のみじんこのように、のこる場所を、ととのえた。
水のへりかたの印を、のこした。
小さなつぶが、それを、まねした。
雨がふって、外から、水が流れこんできた。
流れにおされて、はなればなれになる、なかまもいた。
ピコは、つかまれる、どろの場所を、教えた。
あとは、それぞれに、まかせた。
ある日、ピコは知った。
この水たまりから、細い水の道が、海辺の、べつの水たまりへ、つづいていることを。
海そのものじゃない。でも、次の水へ。
そのとき、一羽の鳥が、低い岸に、おりてきた。
今朝、ピコの封筒が、もどってきた。
しめったどろを、次の水に、あずける。 ピコ
今日。
水たまりは、もう、ほとんど、かわいていた。
ピコは、しめったどろの中に、小さな、小さな、たまごを、うみつけた。
みじんこのたまごは、かわいても、生きていられる。
次に水が来たら、また、目をさます。
それから、ピコは、どろごと、鳥の足に、くっついた。
鳥が、とびたった。
海辺の、べつの水たまりへ。
ピコは、先を、見とどけたかった。
次の水で、たまごが、目をさますところを。
でも、それは、ピコの仕事じゃない。
夜。
海辺の水たまりの、しずかな水面に、鳥の足が、うつっていた。
――頁は、そこで、止まっていた。
手順書に、この行があった。
私がいない先の暮らしを、止めないこと。
2 はがれた、裏表紙
ピコの灯りを包んで、玉をしまったあと、私は、手順書をひらこうとした。
――ぺりっ。
裏表紙が、はがれかけていた。
二十二日目に、とじ糸をなおしたけれど、裏表紙の、紙そのものが、いたんでいたのだ。
すみが、めくれて、ぼろぼろになっていた。
私は、なおすことにした。
裏表紙を、そっと、はがした。
のりで、はりなおすために。
はがした裏表紙の、内がわ。
いつもは、見えないところ。
そこに、えんぴつで、小さな字が、書いてあった。
サヤへ
私は、手を、止めた。
「す」の字は、なかった。
でも、字の形で、すぐに分かった。
手順書と、同じ人の字だ。
引き出しの「そこに、誰か、いますか」と、同じ人の字。
サヤへ。
――宛て名だ。
手紙の、いちばんはじめに書く、あて名。
でも、そのあとには、何も、書いていなかった。
あて名だけ。
本文は、まっ白。
私は、その名前を、知っていた。
毎晩、読んでいる、あの家の女の子。
風のお父さんの、娘。
サヤ。
――でも、同じ名前の子は、世界に、たくさんいる。
私は、それ以上、考えるのを、やめた。
やめようとした。
裏表紙の内がわの「サヤへ」を、じっと見た。
手順書を書いた人は、ほんとうは、この冊子を、だれに、わたしたかったんだろう。
「この部屋で読む係へ」
一ページ目には、そう書いてあった。
でも、いちばんおくの、見えないところには、「サヤへ」と書いてあった。
私は、裏表紙を、のりで、はりなおした。
「サヤへ」の字が、また、見えなくなった。
読まないで、とじても、よかったのだろうか。
見なかったことにして。
――いや。
私は、読んだ。
とじても、読んだことは、なくならない。
3 湖の、羽
右の灯りを、読んだ。
――二十六日目。
日曜日。
サヤは、朝から、友だちと、湖に行った。
カレンダーに、丸をつけてあった日だ。
おれは、ついていけなかった。
家から、出られないのだ。
風は、家の中の、かみの毛と、湯気と、うすい紙しか、動かせない。
――湖。
おれも、昔、サヤを連れて、行ったことがある。
小さいサヤは、水辺の鳥を見て、よろこんでいた。
一日じゅう、おれは、天井のすみで、まどの外を見ていた。
湖は、どっちの方角だろう。
サヤは、今、何を見ているんだろう。
さびしかった。
サヤの、知らない一日。
夕方。
サヤが、帰ってきた。
くつが、どろだらけだった。
手に、何かを、にぎっていた。
鳥の、羽だった。
白くて、ぬれていて、先っぽだけ、少し、灰色の羽。
「ママ! ねえ、きいて!」
サヤは、くつをぬぐのも、わすれて、話しはじめた。
「湖にね、鳥がいてね、足の長い、白い鳥! それでね、その鳥が、水の中の、ちっちゃい虫を食べてるみたいだったの。だから、湖の水、びんに、もらってきた!」
サヤは、リュックから、小さなびんを出した。
それから、物置へ走っていって、古い箱をかかえて、もどってきた。
おれの、昔の、子ども用のけんび鏡だった。
サヤは、びんの水を一てき、ガラスに、のせた。
のぞいた。
「……いた! ちっちゃいのが、ぴょこぴょこ、泳いでる!」
おれは、天井のすみで、それを聞いていた。
――おれの、行ったことのない湖だった。
おれの知らない鳥。おれの知らない、友だちのお父さん。
サヤは、おれのいないところで、ちゃんと、一日を、すごしてきた。
「それからね、湖のそばの小屋を、なおしてる人がいて。かんなで木をけずってて、くるくるの、木のかけら、もらったの」
サヤは、ポケットから、くるくるに丸まった、うすい木のけずりくずを出した。
おれは、今日の風を、そのけずりくずに、そっと、吹いた。
くるくるの木のかけらが、テーブルの上で、ころん、と、ころがった。
サヤは、わらった。
それから、また、話のつづきをはじめた。
4 まだ、いいよ
左の灯りを、読んだ。
――二十六日目。
夜。
リュウジは、娘をだっこして、まどの外を見ていた。
道の向かい。
お母さんの家の、玄関のわき。
三本足の猫が、まるくなっていた。
娘が、猫を見つけた。
手を、のばした。
《にゃんにゃ》《にゃんにゃ》
口を、ぱくぱくさせた。
何か、言おうとしている。
――初めての言葉。
石橋の男の言葉が、頭の中で、ひびいた。
子どもの、初めての言葉を、聞きのがすな。
リュウジは、あわてた。
今じゃない。
まだ、心の準備ができていない。
それに、猫の向こうの、あの家の二階には――
「……まだ、いいよ」
リュウジは、娘に、言ってしまった。
「まだ、いいよ。ほら、こっち。天井の、お星さま」
天井には、星座の形の、光るシールが、はってあった。
リュウジは、娘を、天井のほうへ、向けた。
娘は、ちょっとだけ、星を見た。
それから、また、くるっと、まどのほうへ、顔をもどした。
猫のほうへ。
向かいの家のほうへ。
(つづく)