1 何もしない時間
ゆうべ、生前葬のシュウゾウの灯りを止めた。
まんじゅうの、半分こ。
私は、かべの覚え絵を見上げて、しばらく、ぼうっとしていた。
今朝、封筒を二通、出した。
それから――何もしなかった。
いつもなら、灯りを読んで、帳面を書いて、手順書を読みなおして、覚え絵をととのえて、ガラス玉をふいて。
夜の仕事の前に、やることは、たくさんある。
でも、今朝は、手が、動かなかった。
椅子にすわって、ただ、たなの灯りを、ながめていた。
ぽわん、ぽわん。
――私は、なまけているのだろうか。
そう思ったとき、手順書の、あの行を思い出した。
四日目の夜に、見つけた行。
管理人にも、休む夜をつくること。
今夜は、夜じゃないけれど。
少しだけ、休もう。
そう決めて、私は、目をとじた。
2 三本足の猫
目をあけて、一つめの灯りに、手をかざした。
タマの灯りだ。
タマは、猫だ。
――ほんとうは、ただの猫じゃない。
昔、「わざわいの獣」とよばれた、おそろしい化け物だった。
でも、今は、足が三本しかない、年とった猫として、おばあさんの家に住んでいる。
一日目。
タマは、おばあさんのひざの上で、ふつうの猫の、ふりをしていた。
三本足を、見られたくなかった。
夜中、おばあさんの、せきの音で、目がさめた。
二日目から十六日目。
タマは、昔の力で、おばあさんのせきを、止めようとした。
できなかった。
もう、そんな力は、のこっていなかった。
たなの薬が、からっぽになっていた。
となりの犬のポチに、薬屋さんの場所を聞いた。
犬に、たよりたくなかった。でも、聞いた。
高いへいを、三本足で、よじのぼった。
十七日目から二十日目。
タマは、昔の、えらかった自分のことを、心の中で、話した。
「わしは、昔、町を一つ、ふるえあがらせた獣でな……」
おばあさんは、何も知らずに、タマの三本の足を、あたたかいタオルで、ふいてくれた。
今の、タマの足を。
タマは、おばあさんを、庭の、小さなひなたに、さそった。
おばあさんが、もう、歩けない日があることを、タマは、知らなかった。
近所の人たちが、いすごと、おばあさんを、ひなたまで運んでくれた。
タマとポチは、いすの下に、ならんで入った。
おばあさんの手が、二ひきの頭に、下りてきた。
今朝、タマの封筒が、もどってきた。
薬の時間を、見とどける。それから、ひざに、もどる。 タマ
今日。
お昼の、薬の時間。
タマは、おばあさんが、ちゃんと薬を飲むのを、見とどけた。
コップの水を、ぜんぶ、飲むところまで。
治せない。タマには、おばあさんの病気は、治せない。
それが、くやしかった。
でも、おばあさんが、ひざを、ぽん、ぽん、と、軽くたたいた。
タマは、ひざの上に、のぼった。
三本の足を、きゅっと、たたんで。
夜。
おばあさんのひざの上に、三本の足が、ちょうどよく、おさまっていた。
――頁は、そこで、止まっていた。
私は、手順書の、この行を読んだ。
治せない夜も、膝にいること。
3 観覧車の約束
二つめは、コウヘイという、お父さんの灯りだった。
コウヘイは、遠い町に、仕事で、ひっこすことになった。
息子とは、しばらく、はなればなれになる。
一日目。
コウヘイは、息子に言った。
「ひっこす前に、おまえのねがいを、ぜんぶ、かなえてやる!」
――それから、気がついた。
机のひきだしに、古い帳面が入っていた。
息子が、小さいころから、書いていた帳面だ。
《パパと、今度、行くところ》
ずらっと、ならんでいた。
どの行にも、コウヘイの字で、「今度な」と書いてあった。
今度な。今度な。今度な。
一つも、行っていなかった。
二日目から十六日目。
コウヘイは、かんたんな約束から、どんどん、すませていった。
アイスを食べる。公園に行く。
帳面に、ちゃっちゃっと、丸をつけた。
息子は、丸を、つけなかった。
コウヘイは、息子に、行きたい順番を、聞いた。
いちばん上の行は、「観覧車」だった。
それから、帳面の、いちばん下の行に、小さな字で、書いてあった。
《パパと、いっしょに、かえる》
十七日目から二十日目。
二人で、ひっこしの荷物をつめた。
コウヘイは、さびしいのを、じょうだんで、ごまかした。
息子が、聞いた。
「電話、何曜日に、してくれる?」
コウヘイは、何でも約束しそうになった。
「毎日! 毎日するよ!」
――それは、守れない約束だ。
コウヘイは、言いなおした。
「……水曜日と、日曜日。ぜったい」
それから、帳面の、新しい行に、自分の手で、一つだけ、書いた。
《観覧車。二十一日。雨でも》
息子は、その帳面を、コウヘイにあずけた。
二人で、あしたの準備をした。
小さなかさを、二本、玄関に、ならべた。
今朝、コウヘイの封筒が、もどってきた。
今度な、とは、書かない。今日、乗る。 コウヘイ
今日。
雨だった。
二人は、かさを、二本さして、遊園地に行った。
観覧車は、雨の日も、ちゃんと、回っていた。
ゴンドラに、乗った。
ゆっくり、ゆっくり、上がっていく。
コウヘイは、景色より、息子の顔ばかり、見ていた。
よろこんでいるか。楽しんでいるか。
息子は、まどの外を、じっと見ていた。
雨の町が、ぜんぶ、見えた。
いちばん上に来たとき、息子が、言った。
「パパ、見て。あれ、ぼくたちの家」
コウヘイは、やっと、まどの外を、見た。
夜。
観覧車の、ゴンドラのまどガラスに、顔が二つ、ならんで、うつっていた。
――頁は、そこで、止まっていた。
私は、帳面に、書いた。
「今度」とは、書かなかった。
今日のことだけ。
二十一日目。タマは、ひざにもどった。コウヘイは、観覧車に乗った。雨だった。
4 ねんね、って、よんでた
右の灯りを、読んだ。
――二十一日目。
夕方。
妻とサヤが、リビングで、古いアルバムを見ていた。
写真を選んだ、あの日から、アルバムを見るのが、二人の、夕方の習慣になっていた。
赤ちゃんのころの、サヤの写真。
小さな毛糸の帽子を、かぶせられて、しかめっつらをしている。
妻が、わらって言った。
「あのころは、ねんね、って呼んでた」
――ねんね。
おれは、天井のすみで、ふっと、引きよせられた。
あのころ。
サヤが、まだ、しゃべれなかったころ。
小さくて、あたたかくて、ねむってばかりいたころ。
あのころに、もどりたい。
もう一回、あのころの、あの子を、だっこしたい。
――でも、おれは、もどれない。
サヤは、アルバムを、ぱたんと、とじた。
それから、かべのカレンダーの前に、行った。
えんぴつで、二つ、丸をつけた。
一つは、お祭りの日。《太鼓のお手伝い》
もう一つは、その前の日曜日。《友だちと、湖》
――おれの知らない予定だった。
湖? だれと? いつ決めたんだ?
おれは、その丸を、消したくなった。
湖なんて、あぶない。おれは、ついていけない。
――でも、消さなかった。
風で、カレンダーのはしを、ゆらしただけだった。
サヤの、今の予定だ。
おれの知らない、サヤの、これからの予定だ。
5 この子の名前
左の灯りを、読んだ。
――十九日目。あの日。
お母さんが「すわって。話すから」と言ったとき、リュウジは、すわらなかった。
ちょうど、娘が、泣きだしたのだ。
「ごめん、母さん。また、今度」
リュウジは、娘をだっこして、にげるように、家に帰った。
はんこのあとのある紙は、テーブルの上に、表のまま、のこっていた。
――二十日目。
夕方。
リュウジは、まどから、道の向かいを見た。
お母さんの家の、玄関のわきで、灰色の上着を着た男の人が、しゃがんでいた。
三本足の猫に、えさを、置いていた。
男の人が、顔を上げた。
――知っている顔のような気がした。
リュウジは、目を、そらした。
男の人は、お母さんの家の中に入って、二階へ、上がっていった。
――二十一日目。今日。
お母さんが、娘を、だっこしに来た。
リュウジは、娘をお母さんのほうへ向けて、いつもの呼び名で、娘に話しかけた。
「ほら、ばあちゃんだよ」
お母さんが、少しだまって、それから言った。
「この子の名前、ネネ、じゃないでしょう」
リュウジは、はっとした。
ネネは、呼びやすくて、かわいくて、ずっと、そう呼んできた。
でも、この子には、ちゃんと、名前がある。
自分たちが、考えて、つけた名前が。
――このごろ、その名前を、呼んでいなかった。
娘が、リュウジのうでの中から、お母さんのほうへ、体をのばした。
《ばあば》
字が、うかんだ。
娘は、お母さんのうでへ、うつっていこうとしていた。
(つづく)