1 すかすかのたな
たなは、ずいぶん、すかすかになった。
一日目の夜は、かべが見えないくらい、ぎっしりだったのに。
いまは、灯りと灯りのあいだに、ぽっかり、くらいすきまがある。
そのすきまの分だけ、机の引き出しの中の、ガラス玉がふえた。
かべには、私のかいた絵が、たくさんはってある。
灯りを止めるとき、さいごに、光の中に何かが一つ見える。
赤いはちまき。ちゃんこなべの湯気。売り切れのランプ。豆腐のつつみ。
私は、それを紙にかいて、かべにはる。
「覚え絵」と、私は呼んでいる。
わすれないための、絵だ。
今夜止めるのは、一つだけ。
生前葬のおじいさんの灯りだ。
「生前葬」というのは、生きているうちに、自分のお葬式をすることだ。
ふつう、お葬式は、死んだ人のためにする。
でも、死んだ人は、自分のお葬式に来てくれた人の顔も、言ってくれた言葉も、聞けない。
それなら、生きているうちにやってしまえ。
――そう考えたおじいさんが、いたのだ。
名前は、シュウゾウ。
私は、この灯りを、ずっと読んできた。
今夜で、おしまいだ。
そのまえに、私は、きのうの夜の頁を、もう一度ひらいた。
あんなにへんなお葬式は、この部屋に来てから、はじめて読んだから。
2 へんなお葬式(きのうの頁)
はじまりは、二十日前の、一まいの招待状だった。
シュウゾウ 生前葬のご案内
わしは、まだ生きておる。
生きておるうちに、わしのことを、ほめに来い。
「ほめに来い」。
自分で書いたのだ。
しかもシュウゾウは、息子のケンイチに、「ほめ言葉の見本」まで配った。
《父は、りっぱな人でした》
《父は、いつも正しかった》
《父のおかげで、今の私があります》
ケンイチは、だまって赤えんぴつを取り、見本をぜんぶ、ばってんで消した。
写真も、もめた。
シュウゾウは、スーツを着て、むずかしい顔をした写真を飾りたかった。
家族が持ってきたのは、ちがう写真だった。
孫の運動会で、パン食い競走に飛び入りして、パンをくわえたまま、ころんで、わらっている写真。
口のまわりが、あんこだらけだ。
「こんなものを、葬式に飾れるか!」
シュウゾウはおこった。
ケンイチは、その写真を見て、ぷっとふき出した。
「でも、父さんの顔で、いちばんいいのは、これだよ」
シュウゾウは、何も言えなくなった。
そして、とうとう、そのあんこの写真が、式の紙にのった。
お葬式で配る、案内の紙だ。
わらった顔が、まんなかに、でかでかと。
そして、きのう。
生前葬の日。
会場の庭には、れんがが敷いてあった。
入り口の近くに、一つだけ、空いた席があった。
シュウゾウが、自分で置いた席だ。
その席は、ゴサクのための席だった。
ゴサクは、シュウゾウの、いちばん古い友だちだ。
そして、何十年も、口をきいていない友だちだ。
昔、子どものころ。
二人は、川で遊んでいた。
ゴサクが、足をすべらせて、川に落ちた。
シュウゾウは、すぐそばにいた。
でも、こわくて、手を出せなかった。
ゴサクは、べつの大人に助けられた。
それから、二人は、なんとなく話さなくなった。
何十年も。
ゴサクは、来た。
入り口の近くの席に、むっつりとすわった。
お葬式は、にぎやかだった。
近所の人が、シュウゾウの失敗の話を、つぎつぎにした。
「この人、町内会の旅行で、ちがうバスに乗って、ひとりで温泉に行ったのよ」
「回覧板を、三か月、自分の家で止めてたこともある」
みんな、わらった。
シュウゾウは、いちいち立ち上がって、「あれは、バスの色が同じだったんだ!」と言い返した。
それで、また、みんな、わらった。
礼を言う人もいた。
文句を言う人もいた。
「あんたの家の柿の木、うちの庭に実を落としすぎ」
「それは、礼を言ってほしいくらいだ!」
シュウゾウは、言い返した。
生きているお葬式だから、言い返せるのだ。
さいごに、ゴサクが、立ち上がった。
会場が、しんとなった。
「わしは、ほめに来たんじゃない」
ゴサクは言った。
「あの日、川で、おまえは手を出さなかった。わしは、ずっと、おこっとった」
シュウゾウは、立ち上がりかけた。
「ゆるしてくれ」と、言いかけた。
でも、その口を、とじた。
ゆるしてくれ、と言えば、ゴサクは、ゆるすと言うしかなくなる。
それは、ゴサクの言葉じゃない。
シュウゾウは、すわりなおして、言った。
「……知っとる。ずっと、知っとった」
ゴサクは、しばらく、シュウゾウをにらんでいた。
それから、ぼそっと言った。
「あしたは、家におる」
――きのうの頁は、そこまでだった。
3 さいごの朝
今朝、私は、シュウゾウの灯りへ、封筒を出した。
今夜、この世界は止まります。
残したい言葉があれば、この紙にどうぞ。
お昼ごろ、封筒がもどってきた。
今日は、ゴサクの家に行く。
ケンイチに、車をたのむ。
手みやげは、まんじゅう。
それだけだった。
ゆるしてもらえたら、とも、書いていなかった。
今日することだけが、書いてあった。
4 ゴサクの家
シュウゾウは、朝ごはんのあと、息子に言った。
「ケンイチ。車を、たのめるか」
ケンイチは、ちょっとおどろいた顔をした。
父さんが、ぼくに何かを「たのむ」のを、はじめて聞いた、という顔だった。
「どこまで?」
「ゴサクの家まで」
ケンイチは、何も聞かずに、車のかぎを取った。
ゴサクの家は、川の近くにあった。
堤防の石段を上がって、少し歩いたところ。
玄関の前で、三本足の猫が、ひなたぼっこをしていた。
シュウゾウは、玄関の前で、しばらく立っていた。
ケンイチは、車の中で待っていた。
戸が、あいた。
ゴサクが、顔を出した。
「……来たか」
「来た」
「入れ」
二人は、えんがわに、ならんですわった。
しばらく、どちらも、何も言わなかった。
猫が、三本の足で、ひょこひょこ歩いてきて、二人のあいだに、まるくなった。
シュウゾウは、口をひらきかけた。
――もう、ゆるしてくれたか。
聞きたかった。のどまで、来ていた。
でも、聞かなかった。
かわりに、手みやげのつつみをひらいた。
「まんじゅう」
「見れば分かる」
ゴサクは、まんじゅうを一つ取った。
それから、両手で、ぱかっと、半分にわった。
中から、あんこが、ほくっと見えた。
ゴサクは、その片方を、シュウゾウにさし出した。
「一つは、多い」
シュウゾウは、半分のまんじゅうを、受け取った。
ゴサクは、自分の半分を、ひと口食べた。
「……きのうの写真」
ゴサクが、もぐもぐしながら言った。
「あんこだらけの、あれ。あれは、よかった」
シュウゾウは、わらった。
わらったら、なぜか、鼻のおくが、つんとした。
「おまえも、昔、あんな顔で――」
シュウゾウは、半分のまんじゅうを、口もとまで持ちあげて――
頁は、そこで止まっていた。
5 消しかけたところ
私は、両手で、灯りを包んだ。
光が、手のひらにしみこんで、小さくなって、ガラス玉になった。
さいごに、光の中に、見えたものがあった。
半分にわった、まんじゅう。
私は、それを紙にかいた。
それから、いつもの帳面をひらいた。
私は、止めた人生のことを、帳面にも書いておく。
どんな人だったか。何がすきだったか。さいごに何をしたか。
いつか、だれかにわたすときのために。
私は、書いた。
シュウゾウ。生きているうちに、自分のお葬式をひらいた人。
いちばん古い友だちと、さいごに、まんじゅうを半分こした。
それから、少し考えて、書き足した。
パン食い競走で、ころんで、口のまわりがあんこだらけになった写真を、お葬式に飾った。
町内会の旅行で、ちがうバスに乗って、ひとりで温泉に行った。
そこで、私の手が止まった。
これは、お葬式の話だ。
人が、いなくなる話だ。
そこに、「ちがうバスに乗った」なんて書いていいのだろうか。
ふざけているみたいに、見えないだろうか。
私は、消しゴムを持った。
「ちがうバス」のところを、ごし、ごし、と消しはじめた。
そのとき、手順書が、目に入った。
一日目の夜から、机の左はしに、ずっと置いてある、あの冊子。
その中の、一行を、私は、そらで言えた。
止める前に、残す言葉を聞くこと。別れを暗くしないこと。
別れを、暗くしないこと。
一日目の夜、この一行を読んだとき、私は思った。
「暗くしない別れ」が、どんな別れなのか、書いていない、と。
いま、分かった。
あんこだらけの写真だ。
ちがうバスだ。
まんじゅうの半分こだ。
泣いてもいい。でも、わらってもいい。
いなくなる人の、へんなところや、だめなところを、わらいながら話せること。
それが、暗くしない別れだ。
私は、消しかけた字の上に、もう一度、ていねいに書いた。
町内会の旅行で、ちがうバスに乗って、ひとりで温泉に行った。
本人は、バスの色が同じだったと言いはった。
書きおえて、私は、えんぴつを置いた。
それから、ふと、思った。
私の仕事は、毎晩、だれかの人生を読んで、止めて、その人の言葉と、へんなところと、すきなものを、帳面に残すことだ。
それって――
だれかのお葬式を、手伝っているみたいじゃないか。
もしかして、この仕事も、だれかの生前葬なんだろうか。
でも、だれの?
6 写真の箱
私は、いちばん明るい灯りの一つに、手をかざした。
風のお父さんの家だ。
その夜、お母さんとサヤは、古い写真の箱をひろげていた。
お父さんの写真を、一まい、選んで飾るのだ。
お母さんは、スーツを着た、ちゃんとした写真を手に取った。
「これなんか、いいんじゃない?」
サヤは、首をふった。
「それ、パパっぽくない」
サヤが、箱の底から、一まい、引っぱり出した。
お父さんが、目をよせて、鼻の穴をふくらませて、ものすごくへんな顔をしている写真。
「これ!」
サヤは、ふき出した。
お母さんも、ふき出した。
二人で、おなかをかかえて、わらった。
天井のすみで、風のお父さんが、思っていた。
――なんで、それなんだ。
でも、もう、止められなかった。
二人がわらっているのを、止めたくなかった。
箱の中には、もう一まい、紙があった。
写真じゃない。
お葬式で配る、案内の紙だ。
まんなかに、知らないおじいさんの写真がのっている。
そのおじいさんは、大きな口をあけて、わらっていた。
お母さんは、その紙を、何も言わずに、箱のわきにそっと置いた。
私は、頁から、顔を上げた。
わらう写真の、式の紙。
さっき、止めたばかりの、シュウゾウの世界にあったのと、同じ形の紙。
ちがう世界の、ちがう家の、ちがう人の紙だ。
それなのに、どうして、同じ形なんだろう。
私は、かべの覚え絵を見上げた。
半分のまんじゅうの絵が、いちばん新しい場所に、はってあった。
(つづく)