1 一通だけの封筒
今朝、私が出した封筒は、一通だけだった。
たなの灯りは、もう、数えるほどしか、ない。
一日目の夜、かべが見えないくらい、ぎっしりだったのが、うそみたいだ。
今夜止まるのは、金物屋の男の灯り。
この灯りを、私は、ずっと、読んできた。
でも、読むたびに、少し、むねが、ざわざわした。
なぜかは、分からない。
2 はんこを、おした男
男は、小さな金物屋をやっていた。
くぎ。かなづち。なべ。やかん。
町の人の、くらしの道具を売る店だ。
一日目。
男の友だちの、カジが、たのみに来た。
「この紙に、はんこを、おしてくれないか。おまえの名前を、かしてほしい」
お金を借りるための紙だった。
カジが返せなかったら、かわりに、男が返す、という紙だ。
男は、友だちをしんじて、はんこを、おした。
――カジは、返せなかった。
カジの店は、からっぽになっていた。
二日目から四日目。
男のところに、お金を返せという紙が、どっさり来た。
男は、家族に、言えなかった。
おくさんには、「仕入れに行く」と、うそをついた。
店の道具を、一つずつ、売った。
小さな息子が、店の前で、手をふっていた。
男は、ふつうの顔で、はたらいた。
息子をだっこして泣くことは、できなかった。
店のかんばんを、はずしに、人が来た。
五日目から十一日目。
男は、家を出た。
あやまるかわりに、にげたのだ。
カジをさがして、となりの町へ行った。
そこで、カジの直した、かまどを見つけた。
カジも、お金を返すために、ずっと、はたらいていたのだ。
カジの、出せなかった手紙も、見つけた。
男は、その手紙を、ひらけなかった。
お金がなくなって、小さな修理をして、ねる場所をもらった。
雨で、橋がとじた。
十二日目。十三日目。
川があふれそうな雨の日。
男は、川にながされそうな人の荷物を、運ぶのを手伝っていた。
そのとき、男の、灰色の上着が、川にとられた。
上着は、ながれていった。
男は、ぬれたまま、べつの岸に、運ばれた。
――町では、うわさになった。
「金物屋の男が、川に、ながされたらしい」
川べりに、上着だけが、見つかったから。
十四日目。
男は、自分が、死んだことにされていると知った。
ほんとうのことを言えば、家に帰らなくちゃいけない。
家族に、ぜんぶ、話さなくちゃいけない。
――こわかった。
男は、だまっていた。
十五日目から十八日目。
男は、家の近くまで、もどった。
家を、見上げた。
戸を、たたけなかった。
おくさんに、見つかった。
おくさんは、ものすごく、おこった。
それから、男を、二階に、あげてくれた。
「息子には、自分で、話しなさい」
男は、二階で、かくれるように、小さな修理の仕事をはじめた。
焼けこげた箱の中から、自分の、昔のはんこをさがした。
名前を、見るのが、こわかった。
今朝、男の封筒が、もどってきた。
帰れた、とは、まだ書けない。
名前をすてた分の、責任は、引き受ける。
今日。
男は、二階の部屋で、一まいの紙を、たたんだ。
息子にわたせなかった、手紙だった。
「ごめん」と「ここにいる」しか、書いていない手紙。
階段の下から、息子の声が聞こえた。
男は、まだ、戸をあけられなかった。
夜。
木の板に、焼き印のはんこが、一つ、のこっていた。
男の、名前のはんこだ。
焼き印には、二文字、ほってあった。
テツ。
――頁は、そこで、止まっていた。
3 焼き印
私は、しばらく、その頁を見ていた。
それから、灯りを、両手で包んだ。
いつもより、ゆっくり。
光が、手のひらに、しみこんでいく。
さいごに、光の中に、焼き印のはんこが、見えた。
私は、それを、覚え絵にかいた。
木の板と、焼き印の形。
それから、指で、絵の焼き印を、なぞった。
はんこを、おしたあと。
家に帰れなかった、手。
戸を、たたけなかった、手。
帳面に、男のことを書くとき、私は、あの二文字を、書かなかった。
焼き印の、名前。
名前を書けば、その人のことが、ぜんぶ分かる気がする。
でも、そうじゃない。
あの男は、はんこをおした男で、にげた男で、でも、友だちの手紙をすてなかった男で、川で人の荷物を運んだ男で、二階で小さな修理をしている男だ。
名前一つで、ぜんぶは、言えない。
手順書の、この行を、読んだ。
判を押す前に、読むこと。父の判を、父の一生の全部にしないこと。
――父の、判。
この行を書いた人にとって、はんこをおしたのは、「父」だったのだろうか。
4 いるなら
右の灯りを、読んだ。
――十九日目。
夜。
妻は、台所のテーブルで、一人で、お茶を飲んでいた。
サヤは、もう、ねていた。
妻が、ぽつんと、言った。
だれもいない台所に、向かって。
「……いるなら」
そこで、言葉が止まった。
いるなら、何か、して。
いるなら、合図して。
――たぶん、そうつづくはずだった。
おれは、天井のすみで、どきどきした。
いる。ここに、いる。
しょうこを、見せてやりたい。
何か、大きな合図を。
おれは、今日の風を、テーブルの上の、レシートに、吹いた。
ぴらっ、と、レシートが、うきあがって、テーブルのはしまで、すべった。
妻は、それを、見た。
しばらく、見ていた。
それから、レシートを、指で、そっと、もとの場所に、もどした。
何も、言わなかった。
お茶を、もう一口、飲んだ。
――しょうこは、いらないのかもしれない。
妻は、レシートを、もどした。
いるのか、いないのか、たしかめないまま。
それで、いいと、決めたみたいに。
5 包みの中の、はんこのあと
左の灯りを、読んだ。
――十九日目。
「……それとね。もう一つ、話したいことがあるの」
きのう、おくさんは、そう言った。
「お義母さんと、ちゃんと、話して。……あなたの、お父さんのことも」
リュウジは、答えられなかった。
自分のお父さんのことは、ずっと、話さないようにしてきた。
小さいころに、いなくなったお父さん。
川で死んだ、と、お母さんから聞いた。
それ以上は、聞かなかった。
その日、リュウジは、娘を連れて、道の向かいの、お母さんの家に行った。
お母さんは、黄色い花の、花びんの水をかえていた。
台所のたなが、引っかかって、あかないらしかった。
リュウジは、かんなで、たなのはしを、少しけずった。
けずりくずが、ゆかに、ちらばった。
たなの中から、古い、紙の包みが、出てきた。
お母さんが、包みをひらいた。
中には、古い紙が、何まいも、入っていた。
その一まいに――
赤い、はんこのあとが、あった。
リュウジは、そのはんこを、見た。
見覚えは、なかった。
でも、なぜか、目が、はなせなかった。
お母さんは、包みのそばにあった、古い手書きの表札を、そっと、うらがえした。
名前が、見えないように。
「……母さん、ぼく、今日、ちょっと、いそがしくて」
リュウジは、立ち上がろうとした。
休みの日なのに。
お母さんは、何も言わずに、はんこのあとのある紙を、手に取った。
うらがえしていた紙を、ゆっくり、表にもどした。
それから、リュウジの目を見た。
「すわって。話すから」
(つづく)