1 今日
風のお父さんの家の冷蔵庫には、プリンが一つ、入っている。
お父さんが、買ってきたプリンだ。
ほんとうは、三つあった。
お父さんの分と、お母さんの分と、サヤの分。
お母さんとサヤの分は、もう食べた。
のこっているのは、お父さんの分だけだ。
おととい、冷蔵庫をあけたお母さんが、ふたの日づけを見て言った。
「このプリン、あさってまでだって」
きのうの夜、サヤが、ふとんの中で言った。
「……明日まで」
サヤは、あのプリンを、お父さんといっしょに食べるつもりだったのだ。お父さんの誕生日カードに、そう書いてあった。
そして、今日。
プリンの日づけは、今日だ。
私は、仕事をはじめる前から、ずっと、その灯りが気になっていた。
でも、先に、今夜止める灯りを読まなくちゃいけない。
私は、お茶を一ぱい入れて、机にむかった。
2 申し送り
一つめは、会社で働く、コウキの灯りだ。
コウキは、この春、会社に入ったばかりの新人だ。
やめていくキミコさんの仕事を、引きつぐことになった。
キミコさんは、この会社で、三十年も働いてきた人だ。
一日目、キミコさんから、引きつぎの帳面をわたされた。
うすかった。
ぺらっぺらだった。
「三十年もいて、これだけ?」
コウキは、心の中で、ちょっと、ばかにした。
ぼくなら、もっと、きちんとまとめられる。
ところが、そこから、失敗つづきだった。
二日目。
窓ぎわの植木に水をやったら、となりにつんであった大事な書類が、びしょびしょになった。
コウキは、書類を、こっそりドライヤーでかわかした。
キミコさんは、何も言わずに、窓の外の天気を見ていた。
(あとで分かった。キミコさんは、毎朝、天気を見て、雨の日は書類を窓ぎわからどけていたのだ。帳面には、書いていなかった。)
三日目。
お客さんに出すまんじゅうの数を、まちがえた。
えらい人の数だけ、数えたのだ。
運転手さんや、荷物を運んでくれる人の分を、数えていなかった。
キミコさんは、いつも、その人たちの分まで、ちゃんと用意していた。
帳面には、書いていなかった。
四日目。
会長さんから、電話が来た。
「会長室で飼っていた金魚が、死んでしまった」
コウキは言った。
「それは、ぼくの仕事じゃないと思います」
キミコさんは、何も言わずに、小さな箱をさがしはじめた。
金魚を、お庭にうめてあげるための箱だ。
帳面には、書いていなかった。
私は、わらってしまった。
まんじゅうの数をまちがえるところで、ぷっと、ふき出した。
コウキ、それは、たいへんだ。
でも、わらいながら、少し、しんとした。
帳面に書いていない仕事が、こんなにある。
だれも見ていない。だれも、ほめない。
でも、キミコさんがいなくなったら、書類はぬれて、まんじゅうは足りなくて、金魚はうめてもらえない。
六日目。
コウキは、自分の帳面を作った。
「だれが、何を、おぼえているか」の帳面だ。
天気は、キミコさん。まんじゅうの数も、キミコさん。
それから、警備の人は、会長さんの好きなお茶を知っている。
そうじの人は、どの窓がしまりにくいか、知っている。
ゆうべ、コウキは、封筒に、残す言葉を書いた。
こまったら、近くの人に聞く。
今日。キミコさんの、さいごの日。
コウキは、引きつぎの帳面の、いちばん最後の、あいているところに、書き足した。
《こまったら、近くの人に聞く》
それから、キミコさんに、おみやげのまんじゅうを、さし出した。
今度は、ちゃんと、数をかぞえた。
キミコさんの分も。
「三十年、おつかれさまでした」
キミコさんの手が、まんじゅうのほうへ、のびてきて――
――頁は、そこで止まっていた。
私は、手順書をひらいた。
どこかで、読んだ気がしたのだ。
あった。
見えない仕事をした人のことも、帳面に残すこと。
私は、その行の横に、えんぴつで、小さな丸をつけた。
コウキの世界と、この一行。
にている。
すごく、にている。
たまたま、だろうか。
手順書の行は、ばらばらにならんでいて、どの世界のことを言っているのか、どこにも書いていない。
でも、読めば読むほど、手順書の一行と、どこかの世界の人生が、ぴたりと、かさなって見える。
私は、お茶を飲んだ。
すっかり、さめていた。
読んでいるあいだに、さめてしまったのだ。
さめたお茶は、ちょっとにがくて、でも、なんだか、それでよかった。
3 ほかの、四つの灯り
今夜止まる灯りは、ほかにもあった。
狛犬をほる、弟子のウン。
お師匠さんが、口を「あ」の形にあけた狛犬だけを、のこしていなくなった。
もう片方、口を「うん」ととじた狛犬を、ウンがほる。
どんな口にするか、ずっとまよっていた。
さいごの日、ウンは、ノミを持った。
まよったまま、ほることにした。
――ノミを打つ手に、そっと、もう片方の手をそえたところで、頁は止まっていた。
大金の入った封筒を、ひろったカズマ。
封筒には、「ごめんね」と書いた紙が入っていた。
カズマは、持ち主を、ずっとさがしていた。
お礼がほしい、と、ちょっとだけ思いながら。
さいごの日、持ち主のおばあさんが、見つかった。
カズマは、封筒を机に置いて、待った。
――おばあさんの指が、「ごめんね」の紙に、のびていくところで、頁は止まっていた。
いつも二位の、ヒナ。
会ったこともない一位の子に、ずっと勝ちたかった。
さいごの日、ヒナは、川べりに、問題集を持っていった。
一位の子が、いつも、そこで勉強していると聞いたから。
「勝つため」じゃなかった。「となりで、やってみたかった」のだ。
――一位の子が、ヒナのとなりに、すわろうとするところで、頁は止まっていた。
結婚式で、スピーチをたのまれた、ハルオ。
花よめさんは、ハルオの、昔の恋人だった。
上手なスピーチは、いくらでも書けた。
でも、うそのない言葉は、なかなか書けなかった。
さいごの日、ハルオは、マイクの前に立った。
原稿の紙の、うらを見た。
そこには、一行だけ、書いてあった。
ハルオは、息を、すった。
――さいしょの「おめでとう」を、言おうとするところで、頁は止まっていた。
私は、灯りを、一つずつ、両手で包んだ。
ガラス玉が、ことん、ことん、と、引き出しの中にならんでいった。
4 プリン
仕事がおわって、私は、やっと、あの灯りに手をかざした。
風のお父さんの家。
夕方だった。
台所のテーブルに、プリンが一つ、置いてあった。
冷蔵庫から、出してきたのだ。
スプーンが、二本。
お母さんと、サヤが、テーブルをはさんで、すわっていた。
二人とも、プリンを見ていた。
だれも、ふたを、あけなかった。
――天井のすみで、風のお父さんは、そのプリンを見ていた。
あれは、おれが買ってきたプリンだ。
おれの分だ。
食べてほしい。今日までなんだから。
でも、食べたら、なくなる。
おれが、この家に持ってきた、さいごの一つが、なくなる。
「……食べる?」
お母さんが、小さな声で言った。
サヤは、首を横にふった。
「食べたら、なくなっちゃう」
お母さんは、何も言わなかった。
サヤも、何も言わなかった。
冷蔵庫の、ぶーん、という音だけが、聞こえた。
「食べたらさ」
サヤが、下をむいたまま言った。
「パパのこと、ちょっとずつ、わすれちゃいそうで」
――おれも、同じことを思っていた。
食べたら、おれが、へっていく気がする。
あの二人の中から、おれが、ひとさじずつ、へっていく気がする。
でも。
でも、今日までなんだ。
食べてくれ。
おいしいうちに。
お母さんが、ゆっくり、ふたをあけた。
ぺりぺりぺり。
それから、スプーンで、プリンを、まんなかから、半分にわった。
一つを、サヤのほうへ。一つを、自分のほうへ。
サヤは、スプーンを持ったまま、動かなかった。
お母さんが、ふっと、わらった。
「ねえ。パパがね、プリンを流しにおとしたこと、おぼえてる?」
サヤが、顔を上げた。
「あなたが、三年生のとき。パパが冷蔵庫からプリンを出して、ふたをあけようとして、つるんって、流しにおとしたの。さかさまに」
「……おぼえてない」
「そしたらパパ、なんて言ったと思う?」
「なんて?」
お母さんは、お父さんのまねをして、まじめな顔で言った。
「『だいじょうぶ。洗えば食べられる』」
サヤが、ふき出した。
「洗ったの!? プリンを!?」
「洗ったのよ。水道で。じゃーって。そしたら、ぜんぶ、ぐずぐずにとけて、流れていっちゃったの。パパ、空っぽのカップを持って、三十秒くらい、だまってた」
サヤは、テーブルにつっぷして、わらった。
足をばたばたさせて、わらった。
お母さんも、わらった。
――天井のすみで、風のお父さんは、はずかしくて、見ていられなかった。
それ、言うか。いま、それを言うか。
でも、二人がわらっているのを見ていたら、おれも、わらってしまった。
声は出ない。でも、わらった。
サヤは、わらいながら、プリンを、ひとさじ、口に入れた。
「……おいしい」
それから。
サヤの顔が、くしゃっと、ゆがんだ。
わらった口のまま、目から、涙が、ぼろぼろ、こぼれた。
「おいしいって」
サヤは、スプーンをにぎったまま、言った。
「おいしいって。誰に言えばいいの」
お母さんは、何も言わなかった。
言えなかった。
ただ、テーブルごしに、サヤの手を、にぎった。
――おれに、言え。
おれは、ここにいる。
おいしいって、おれに言え。聞こえてる。ちゃんと、聞こえてる。
でも、おれには、口がない。
返事をする口が、ない。
おれは、ふう、と吹いた。
お母さんが入れた、お茶の湯気に。
湯気が、ゆらっと、サヤのほうへ、なびいた。
サヤは、泣きながら、その湯気を見た。
言葉には、ならなかった。
でも、湯気は、サヤのほうへ、なびいていった。
5 私が、聞いた
頁は、そこで、今日の分がおわっていた。
私は、しばらく、手をかざしたまま、動けなかった。
おいしいって。誰に言えばいいの。
私は、灯りにむかって、小さな声で言った。
「……私が、聞いたよ」
もちろん、とどかない。
私の声は、あの台所には、とどかない。
風のお父さんの声が、とどかないのと、同じように。
それでも、言いたかった。
だれかが、聞いていたと。
ここに、聞いていた者がいると。
私は、机のいちばん下の引き出しを、そっとあけた。
おとといの夜、その奥で見つけた、小さな紙が、まだ入っていた。
そこに、誰か、いますか
だれが書いたのか、分からない。
だれに聞いているのかも、分からない。
でも、今夜、この一行は、あの台所の声と、同じに聞こえた。
私は、紙を、そっと引き出しにもどした。
たなの灯りが、ぽわん、ぽわん、と光っていた。
あしたの夜止まる灯りの中に、スズという女の子の灯りがあった。
スズも、おじいちゃんと、プリンを食べる約束をしている子だ。
(つづく)