1 二日目の夜
二日目の夜が来た。
たなの灯りは、ゆうべと同じように、ぽわん、ぽわん、と光っていた。
でも、よく見ると、ちがう。
いくつかの灯りが、ほかより、少しだけ、くらい。
いまにも消えそうに、ほそく、ゆれている。
読まれることの少なかった灯りだ。
今夜、私が止める灯りだ。
いちばんくらいのは、きのうの、世界でいちばん強い男、カナメの灯り。
それから、相撲部屋の新弟子、バトの灯り。
それから、町のすみっこに立っている、自動販売機の灯り。
ほかにも、いくつか。
私は、手順書をひらいた。
「止める」のが、どういうことなのか、もう一度さがした。
やっぱり、どこにも書いていなかった。
止め方も。止めたら、どうなるのかも。
私は、深呼吸をして、カナメの灯りに手をかざした。
2 カナメと、はだしの子
夕方の校庭だった。
男の子は、きのうと同じように、植えこみの前に、ぺたんとすわっていた。
おしりの下に、自分の運動ぐつを、かくしたまま。
カナメは、その前に、つっ立っていた。
世界でいちばん強い男が、どうしていいか分からずに、つっ立っていた。
「……走らないのか」
「はあはあするのが、いやなの」
「はあはあしても、死にはしない」
「でも、みんなが見るもん。ぼくがびりで、はあはあしてるの」
カナメは、だまった。
それから、自分の子どものころのことを、少しだけ、思い出しかけた。
――運動会。赤いはちまき。
でも、思い出せなかった。カナメは、ずっと強かったから。そういうことに、しておきたかったから。
カナメは、校庭の白線のところまで、もどった。
スタートの線だ。
そこに立って、言った。
「おれは、ここで待ってる」
男の子が、顔を上げた。
「おぶって走るのは、やめる。先に走るのも、やめる。
おまえが、くつをはいて、ひもを結んで、ここまで来るまで、待ってる」
カナメは、まばたき一つで、ゴールまで行ける男だ。
その男が、白線の上で、じっと、待った。
男の子は、しばらく、カナメを見ていた。
それから、おしりの下から、くつを出した。
片方ずつ、はいた。
ひもを結ぶのに、ものすごく時間がかかった。
一回、ほどけた。
二回目も、ほどけた。
カナメの足が、うずうずした。
先に、ひとっ走りしてきたい。まばたき一回で、行って帰ってきたい。
でも、カナメは、動かなかった。
白線の上で、うでを組んで、待った。
三回目で、ひもが結べた。
男の子は、立ち上がって、とことこと、白線のところまで歩いてきた。
それから、なぜか、カナメの前で、ぴしっと気をつけをして、深々とおじぎをした。
「このたびは、まことに、おめでとうございます」
「……なんだ、それは」
「おじさんの結婚式で、おじいちゃんが言ってたやつ。大事なときに言うんだって」
カナメは、ふき出しそうになった。
でも、わらわなかった。
かわりに、自分も、ぴしっと気をつけをして、おじぎをした。
「……こちらこそ、まことに」
二人は、白線の上に、ならんで立った。
「いくぞ」
「……うん」
男の子が、ひざを曲げた。
カナメも、ひざを曲げた。
世界でいちばん速い足と、世界でいちばんおそい足が、同じ線の上で、同じ一歩目を――
――頁は、そこで、とぎれていた。
文の、とちゅうで。
3 灯りが、息をする
私は、あわてて、頁の次をさがした。
なかった。
白い紙が、あるだけだった。
そのとき、灯りが、ちか、ちか、と点滅をはじめた。
息をしているみたいだった。
すって、はいて。すって、はいて。
そのたびに、光が、少しずつ、よわくなっていく。
――苦しいんだ。
なぜか、そう思った。
この灯りは、もう、止まらなくちゃいけない。
止まりたいのに、止まれなくて、苦しそうに、息をしている。
私は、両手を出した。
どうすればいいのか、だれにも教わっていない。
でも、手のほうが、知っていた。
私は、灯りを、両手で、そっと、包んだ。
あたたかかった。
光が、手のひらに、しみこんでくる。
じわっと。
ろうそくの火を、手のひらで包んだときみたいに。
光は、どんどん小さくなって――
さいごに、光の中に、何かが、ちらっと見えた。
押し入れの、古い箱。
その中に、たたんである、赤いはちまき。
それから、光は、消えた。
私の手の中に、すきとおったガラス玉が、一つ、残っていた。
つめたくて、つるつるで、ビー玉より、少し大きい。
のぞきこむと、向こうが、すけて見えた。
もう、何も、うつっていなかった。
私は、しばらく、その玉を持ったまま、動けなかった。
カナメは、走れたのだろうか。
男の子は、一歩目を、ふみだせたのだろうか。
それを、だれも、もう、読めない。
私は、机の引き出しをあけて、玉を、そっと入れた。
それから、紙を一まい出して、さっき光の中に見えたものを、かいた。
押し入れの箱と、赤いはちまき。
なぜ、あれが見えたのかは、分からない。
でも、わすれたくなかった。
私は、その絵を、かべに、はった。
4 バトの「たすけて」
次は、相撲部屋のバトの灯りだった。
きのうの夜、バトは、やっと、ふるさとのお母さんと電話がつながった。
画面の向こうで、お母さんは、わらっていた。
「ごはん、食べてる? みんなに、やさしくしてもらってる?」
バトは、「うん、うん」とうなずいた。
砂糖の話は、しなかった。
日本語が、まだ、ほとんど分からないことも、言わなかった。
「すみません」しか、言えないことも。
電話のさいごに、お母さんが言った。
「こまったら、ちゃんと、言うのよ。『たすけて』って。日本の言葉で、何て言うの?」
バトは、知らなかった。
電話を切ってから、辞書をひいた。
《たすけて》
何回も、何回も、口の中で、練習した。
そして今日。
ちゃんこなべの当番だった。
大きな、大きな、なべ。
部屋のみんなの分が入った、ぐらぐらにえた、なべ。
バトは、それを、台所から、みんなの待つ部屋まで運ぶことになった。
体は、部屋でいちばん大きい。
力も、ある。
――でも、なべは、思ったより、ずっと、重かった。
しかも、熱かった。
とってが、手のひらに、じゅうっとくいこむ。
バトの足が、ふらついた。
なべの中の汁が、ざぶん、とゆれた。
ここで、落としたら。
みんなの夕ごはんが、ぜんぶ、ゆかに。
バトは、口をあけた。
「スミマセン」と言いそうになった。
それを、ごくんと、のみこんだ。
かわりに、言った。
声が、ふるえた。
大きな体の、小さな小さな声だった。
「……タ、タスケテ」
部屋の中の音が、一しゅん、止まった。
それから。
いちばん近くにいた兄弟子が、ばっと立ち上がった。
「おう!」
兄弟子の手が、なべのとってに、のびてきた。
バトは、その手に、なべを――
――頁は、そこで、とぎれていた。
灯りが、ちか、ちか、と息をしはじめた。
私は、両手で包んだ。
さいごに、光の中に、商店街の、ちゃんこ屋さんの湯気が見えた。
ガラス玉が、二つになった。
5 売り切れのランプ
三つめは、自動販売機の灯りだった。
町のすみっこの、さびしい道に立っている、一台の自動販売機。
動けない。しゃべれない。
できるのは、ランプを光らせることと、飲み物をことんと落とすことだけだ。
毎日、夕方になると、小さな女の子が来る。
うすい上着で、ふるえながら、自動販売機の前に立つ。
見ているのは、あたたかいココアのボタン。
ポケットから、小銭を出して、数える。
――いつも、十円、足りない。
女の子は、しばらくココアを見て、それから、帰っていく。
きのう、自動販売機は、考えた。
あの子が、足りないお金をにぎりしめて、がっかりして帰るのを、見たくない。
だから、ココアのボタンに、「売り切れ」のランプをつけた。
売り切れなら、あの子は、がっかりしないで、すぐに帰れる。
女の子は、「売り切れ」を見て、すぐに帰っていった。
――自動販売機は、あとで気がついた。
助けたつもりで、あの子を、追い返してしまった。
その夜、補充係のおじさんが来て、首をかしげた。
「おかしいな。おつりの出口に、何か、つまってる」
おつりの出口の、おくのおく。
だれかが、前に、とり忘れた十円玉が、一まい、はさまっていたのだ。
今日。
夕方。
女の子が、また来た。
うすい上着で、ふるえながら。
自動販売機は、「売り切れ」のランプを消した。
それから、のこっている力を、ぜんぶ使って、おつりの出口のランプを、ぱっと明るくした。
いつもは光らない、小さなランプだ。
――ここを見て。ここに、あるよ。
女の子は、光ったおつりの出口を、見た。
指を入れた。
ちゃりん、と、十円玉が、ころがり出て、地面に落ちた。
女の子は、目をまるくして、その十円玉のほうへ、かがんで――
――頁は、そこで、とぎれていた。
私は、灯りを包んだ。
さいごに見えたのは、湯気の立つ、缶のココアだった。
まだ、だれも、飲んでいない。
6 ほかの灯り
その夜は、まだ、止める灯りがあった。
大岩をどけて、谷に日の光をとどけたかった、岩のぼりのトビ。
さいごの日、大岩をどけるのをやめて、光のあたる場所へ、小さな植木ばちを一つ、運んだ。
はちの葉っぱに、光が、とどく――とちゅうで、とぎれていた。
駅伝の監督。
自分がむかし、たすきを、次の人にわたせなかった人。
さいごの日、足のおそい部員のとなりを走るために、倉庫から、色あせた古いたすきを出してきた。
部員の手が、そのたすきに、のびる――とちゅうで、とぎれていた。
泣き虫のロク。
泣かないお父さんの前で、泣かないようにがんばっていた男の子。
さいごの日、古い船の写真のうらに、お父さんの昔の仲間の名前を見つけた。
お父さんの目から、何かが、ぽつんと落ちた。
ロクが、それに指をのばす――とちゅうで、とぎれていた。
「ありがとう」を預かる銀行で、はたらくコトハ。
みんなのありがとうを預かるのに、自分は、だれからも感謝されていない気がしていた。
さいごの日、常連のおばあさんが、窓口の外から、コトハの名前を呼ぼうとした――とちゅうで、とぎれていた。
夜ばんのマホと、朝ばんのツヨシ。
いっしょにいられる時間が、一日に、三十分しかない夫婦。
さいごの日、ごはんの食器をかたづけないで、もう一度、テーブルにすわりなおした。
ツヨシが、えんぴつを、紙に当てる――とちゅうで、とぎれていた。
転校していく、ワタリ。
友だちのネヅと、別れるまでに何をするか、まっ白なノートを、二人でのぞきこんだ。
ネヅが、はじめて、ペンを取る――とちゅうで、とぎれていた。
空港で、飛行機を見送る係の、スバル。
病院へ行く男の子のために、窓の反対がわからも見える場所で、主任さんと、手をふった。
飛行機の小さな窓に、小さな手のかげが、見えた――ところで、とぎれていた。
みんな、とちゅうだった。
みんな、何かを、しかけたところだった。
私は、一つずつ、両手で包んだ。
ガラス玉が、ことん、ことん、と、引き出しの中にふえていった。
かべの絵も、ふえていった。
赤いはちまき。ちゃんこの湯気。缶のココア。光にむかう植木ばち。色あせたたすき。軒の風鈴。ありがとう帳。落ちきった砂時計。寄せ書き。屋根に乗った紙飛行機。
私は、この絵を、「覚え絵」と呼ぶことにした。
わすれないための、絵だ。
7 小さな人生?
仕事がおわって、私は、机に手を置いた。
机が、あたたかかった。
私の手が、灯りを包んだ分だけ、あたたかくなっていたのかもしれない。
私は、しばらく、手をのせたままでいた。
――二日しか、なかった。
カナメも、バトも、自動販売機も。
一日目と、二日目。
たった二日で、止まってしまった。
早く止まったのは、読まれることが少なかったからだ。
じゃあ、あの人たちの人生は、小さな人生だったのだろうか。
どうでもいい人生だったのだろうか。
ちがう、と思った。
カナメは、世界でいちばん強いのに、白線の上で、待つことをおぼえた。
バトは、「すみません」じゃなくて、「たすけて」と言えた。
自動販売機は、動けないのに、たった一つのランプで、十円玉の場所を知らせた。
二日しかなかった。
でも、小さくなかった。
私は、手順書をひらいた。
なにか、書いてあるかもしれないと思って。
ページをめくっていって、一行のところで、手が止まった。
止める前に、残す言葉を聞くこと。別れを暗くしないこと。
止める前に。
残す言葉を、聞くこと。
――私は、聞かなかった。
カナメにも、バトにも、自動販売機にも。
あの人たちは、今日で止まるなんて、知らなかった。
知らないまま、とちゅうで、とぎれた。
言いたいことがあったかもしれないのに。
私は、引き出しをあけた。
ガラス玉が、ならんでいた。
「……ごめん」
玉は、何も言わなかった。
私は、引き出しのおくを、さがした。
一日目には気がつかなかったけれど、引き出しのおくに、封筒のたばが入っていた。
白い、まっさらな封筒。
あした止まる灯りには、今夜のうちに、この封筒を出そう。
あしたの夜で止まることを、先に知らせよう。
そして、残したい言葉を、聞こう。
私は、封筒の数を、かぞえた。
あした止まる灯りの数より、少し、足りなかった。
私は、紙を出して、足りない分の封筒を、一まい、一まい、自分で折りはじめた。
夜は、まだ、長かった。
(つづく)